芭蕉の旅「奥の細道」No9

あさか山からしのぶの里

等躬の宅から旅を続け五里ばかり行くと、奥羽街道の宿である檜皮(ひはだ)の宿がありそこを更に進むとあさか山があります。

ここからは道が近くになり、沼の多いところです。

かつみを刈る頃がもうすぐであろうと、この辺ではどの草をかつみ草の花というのかと尋ねたけれども知る人がいないようで、沼で人に尋ねて「かつみかつみ」と聞いて歩き、日は山の端に掛かる頃となってしまったとあります。

二本松より右に曲がり、黒塚の岩屋と言われる謡曲「安達原」で有名な鬼女の岩屋を一見して、福島の宿にたどり着ています。

そうして一泊して、翌朝にしのぶもぢ摺の石を尋ねて忍ぶの里を訪ねています。遥か山陰の小さな人里にあるその石は、半ば土に埋もれてありました。すると、その里の童が寄って来て、教えてくれるところによると「昔はこの上にあったのですが、往き来する人が、麦の葉をちぎって、この石で試しなさるをいやがって、この谷へ突き落したので、石の表が下向きに伏している」というのです。

この地が、昔風雅な模様のしのぶもぢずり絹の産地であったことから、この石のいわれに感動して、芭蕉はここで一句詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No8

須賀川

兎に角、こうして芭蕉一行は白川の関を越えて阿武隈川を渡りました。

左に会津磐梯山を高く見て、右に岩城。相馬、三春の荘園を眺めて、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)の地を境として山がつらなっています。

須賀川の宿駅の町に等躬(とうきゅう)という俳人を訪ねて四、五日滞在しています。

そこで、「白川の関を越えるに、どのような句を詠みましたか」と、等躬に尋ねられ、「長いみちすがらの苦しみに身も心も疲れ果て、しかも、風景には驚かされて白川での詩人達の感慨が身に沁み腸までもがちぎれる思いがしました」と答えています。

そして、ここに一句を書き残しています。

疑いもせずに一句で答えたさすがの芭蕉の句に、その後に連句の第二句脇句を付け、その後は第三句と続け歌仙三巻となったものだと「奥の細道」にも記されています。

この宿のかたわらに大きな栗の木があり、木蔭に世を捨てた僧侶が住んでいました。

その木の実を拾い奥まった大木のような山にも、このように静かに暮らすものだと、懐紙に書き記していたようです。

その詞を見ると「栗という文字、は西の木と書く。西方の極楽浄土からの便りであると、行基菩薩の一生の杖にも、家の柱にも、この木を使われているという」と書いてあり、そこで芭蕉は感動して、一句詠んでいます。

 

※この詞とは『法然上人行状絵図』に書かれていたものであるとの注釈資料あり。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No7

白川の関

不安なままに日数ばかりが過ぎて、やっと白川の関にさしかかるころとなり、旅の心もとうとう定まって来ました。

「便りあらばいかに都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」平兼盛の歌にもあるように「いかで都へ」と便りを頼もうとしたが断られて届かないのです。

この白川の関は日本三関と言われる難所で、奥州の入り口を守る有名な関所です。

他に茨木と福島の境界である勿来(なこそ)の関、山形と新潟との国境である念珠(ねず)が関の二つの関所があり、この三つが日本三関と言われています。

そして、中でもこの白川の関は、詩人や風雅の人が多く関心を持ち歌に詠んでいます。

秋風を耳に残して紅葉を人の面影とするほどに青葉の茂る梢は、猶さらに哀れを感じます。

卯の花の白く美しい姿には、茨の花寄り添って咲き、まるで初雪のなかを越えるような心地がすると芭蕉は書いています。

古人は、冠を正し新たに正装して越えたものだと歌人で歌学者藤原清輔が『袋草子』に書きとめていると、そこで一句曾良が詠んでいます。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No6

雲巌寺より殺生石・遊行柳

下野の国の雲巌寺の奥に仏頂和尚が山中に住んでいたという跡があると訪ねています。

仏頂和尚と芭蕉は江戸の深川で出会っていて、その後、和尚は晩年を雲巖寺で山庵を営み七十四才で逝去しています。

そんな、山中の山庵の跡を訪ねて行こうとすると、みちすがらに人々が一緒になって若者まで賑やかに騒いで付いてきて気が付けば、雲岩寺の麓まで辿り着いていました。

鬱蒼とした山に谷道は遥かにつづき、松や杉はあたりを暗くして、苔からは水が滴り、卯月だというのに寒いくらいです。

そして、十景が尽きるところの最後の橋を渡り、山門に入ります。

そうしてあの山庵の跡を探し、後ろの山をよじ登ると、石の上に小さな庵があり、そのすがたは岩窟に結び付けて築かれていました。

厳しい巌に妙禅師の「死関」法雲法師の石室を見るようだと、ここで即興で一句詠んでいます。

ここから更に、芭蕉は殺生石へと向かいます。

ここで馬引きにせがまれて一句詠んだとあります。

殺生石は那須温泉の山陰にあり、石の毒気はいまだになくなっておらず、その毒気の有毒ガスに、蜂や蝶までもが地面の砂が見えないくらいに重なって死んでいたとあります。

そこから進み、西行の歌にも「道のべに清水流るゝ柳・・・・」と詠まれている柳が、芦屋の里にあり田の畔に残っています。この地の領主の戸部なにがしが「この柳をお見せしたい」などと、折々に良くおっしゃっていたので、どこにあるものかと思っていたが、とうとう今日この柳の陰に立ち寄ったのだと、ここで一句詠んでいます。

芭蕉の旅「奥の細道」No5

那須の黒羽

日光から那須の黒羽へと向う途中に、農夫の家に泊まることになります。

そして、次の日の朝はやくにどこまでも縦横無尽に続く野中の道で、野飼いの馬を見つけるのです。

そこで芭蕉は、この野中の道は辛いので、農夫に頼み込んでその馬を借りて行くことにします。すると、その馬の後を二人の小さな子が付いてくるので、その二人のうちの女の子に名を聞くと「かさね」ということでした。

可愛らしい名の娘に一句残し、その先の人里につくと、二人の子と馬にはお礼を縛り付けて返します。

そうして黒羽に着くと、そこでは館代秋鴉とその弟の桃翠を訪ねています。

何日も滞在して郊外を散歩したりして過ごし、八幡宮を参拝することになります。

平安末期の源平合戦で那須与一が扇の的を射抜いた時に祈願したのはこの神社であると聞き、その感動や感銘は特別に強いものであったと書かれています。

この後、修験光明寺に招かれて役行者を祀った行者堂を拝んで、そこでも一句詠んでいます。

ここにある那須与一とは原文では与市とあるが、前後の説明から那須与一であろうと思われます。

この人物は源平合戦の「屋島の戦」にて、平家が立てた扇の的を見事に射落としたことで有名な源氏方の武士とされますが、実在の人物であるかどうか不明なのです。

八幡神社に謂れがあると言われていて、八幡神社とは那須神社であるとのことから、この「奥の細道」の那須黒羽の地にも、源平合戦の伝説が残されているのでしょう。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No4

日光にて

奥の細道は、千住を出発して奥羽、北陸を通り美濃国大垣まで、およそ600里(2400Km)を150日かけて歩きぬいた旅といわれます。

深川の芭蕉庵から千住へ、そして、草加を経て室の八島を詣で、日光へと辿り着きます。

卯月朔日と書かれています。これは旧暦の4月1日に当たる頃です。

ここで芭蕉は、日光の東照宮に参詣しています。そして、何句か詠んでいます。

昔は「二荒山」といわれていたが、空海大師が東照宮を開基に山に登った時に、「日光」と名を改めたと言われています。

そして、ここで旅の同行人である曾良が、河合惣五郎という名であったが、髪を剃りすて「宗悟」と改名したと書かれています。

この後、二人は日光の裏見ノ滝を訪れています。

 

 

 

青葉の季節

もうすぐゴールデンウイークですね。この頃になると青々とした若葉が美しくふと、「目に青葉・・・・」と思いうかべます。

これは有名な句ですね。でも、この句よく勘違いされているんですよ。

実はこの句は

目には青葉山ほととぎす初鰹・・・山口素堂

という句なんです。

こうしてみるとこの句はかなりハチャメチャな句なんです。

まず、上五が、「目には青葉」6文字で字余りです。

そして、中七「山ほととぎす」ここで上五の「青葉」と「ほととぎす」が季重なりです。

更に、下五「初鰹」でこれまた季重なりです。

何と、字余りの破調で、しかも季重なりなんですね。

面白い句です。作者の山口素堂(やまぐちそどう)という人物は、江戸時代中期の俳人で、芭蕉と親交を結んで蕉風の成立に影響したとされています。

昔から名句は型破りなんですね。

青葉の美しい季節がくると日本人なら誰でもが思い出す名句ですね。

(2017・4・24)

 

一茶の「夕ざくら」

今日は小林一茶の桜の句をご紹介

夕ざくらけふも昔に成にけり       一茶

この句は小林一茶の句です。一茶48歳といわれ「七番日記、文化七年二月」の作品です。
一茶にしては風情のある情景を詠んでいますね。
どこか物憂げな感覚が桜の頃のあっという間の凄まじさを上手く表現されています。

(2017・4・23)

芭蕉の旅「奥の細道」No3

旅のはじめ

元禄二年三月二十七日(旧暦)いよいよ旅立ちの日となる。
この日は富士山が遠くにかすかに見えて、ちょうど上野や谷中の桜も咲き、これが見おさめかと淋しい旅の別れを見守っていてくれるようでした。

そして、門人達は別れを惜しみ舟で見送りに千住まで行き、そこで涙の別れとなります。そこからは、門人曾良が同行することとなり、芭蕉の奥の細道の旅がはじまったのです。

ここで門人達が見送った千住とは奥州街道の始まりの地。

奥州街道とは、江戸千住から奥州白河に至る街道。
五街道の一つ。
五街道とは、江戸時代に江戸日本橋を起点とした、
東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道の称。

 

「奥の細道・旅立」過去番組はこちらからご覧ください。
https://youtu.be/s4F2uNC8gec

「奥の細道・草加」過去番組はこちらからご覧ください。
https://youtu.be/PsO9-vMzESo

「奥の細道・室の八島・仏五左衛門」過去番組はこちらからご覧ください。
https://youtu.be/RNtK4n4gwLs

「奥の細道を読もう!」<黒羽><雲巖寺>をFacebookライブで動画でご覧ください。

芭蕉の旅「奥の細道」No2

芭蕉と旅

芭蕉は自らを見つめ、自然の心をとらえ、うそいつわりのない真情を575の文字で表現するために、風雅の道を求めていました。
そのために、作品に行き詰まると旅を試みています。代表的な紀行文に残されている旅として次の3つがあります。

四十一才のとき
「野ざらし紀行」野ざらしの旅。1684年秋~翌年1685年四月。

四十四才のとき
「笈(おい)の小文(こぶみ)」旅を楽しむ心境の旅。1687年~1688年の旅。

四十六才のとき
「奥の細道」みちのくの旅。1689年3月27日深川を出発~9月6日大垣に筆を止める。