芭蕉の旅「奥の細道」No11・笠島から武隈へ

笠島から武隈へ

鐙摺(あぶみずり)から白石の城を過ぎて、笠島の郡りに入れば、平安中期の歌人である籐中将実方の塚を探して人に尋ねたところ「ここからはるかに右に見える山際の里を、箕輪、笠島といい、道祖神の社がありかた身の薄と言われて今もあるのです。」と教えられました。このごろの五月雨に道がとてもあぶないので、たいそう疲れてしまい、外から眺めて過ぎて行こうとして、箕輪、笠島の簑や笠は折からの五月雨の時節に関係があるのかと思い、面白がって一句ここで芭蕉が句を詠んでいます。

そして、岩沼に宿をとると書かれています。

ここで言う岩沼とは、古くは武隈(たけくま)と称していました。この武隈では有名な武隈の松にこそ、その見事さに目覚めるような心地がしたとあります。

根は土際から二つに分かれていて、昔から伝えられている姿を失ってはいないことが解ります。

真っ先に能因法師のことを思い出します。その昔、陸奥守として当地に下った人が、この松の木を伐って名取川の橋杭にされたことがあったからであろうか、能因法師は「松は、このたび来てみると、跡かたもなくなっている」と詠んでいます。

代々に渡って、あるいは伐り、あるいは植え継ぎなどをしたと聞いていたのに、今まだ、松の木の千年と言われる通りの木立となっていて、立派な松の様子となっています。

「遅桜は、翁がそちらに行かれる頃は、桜も終っていよう。せめて武隈の松をお見せ申してくれよ」と挙白というものが江戸の旅立ちの餞別に句を贈ってくれたことに応えて、芭蕉がここで一句詠んでいます。