芭蕉の旅「奥の細道」No14・末の松山から塩竈へ

末の松山から塩竈へ

それから玉川、沖の石をたずねて行きます。

末の松山とは歌枕で、末松山というお寺が建てられています。

松の間はみな墓地となり、夫婦円満で仲睦まじく契りを交わした末にも、終には、このように墓に入ることになるものだと思うと、

悲しさもつのるばかりで感慨にひたっているところに、塩がまの浦に日暮れの鐘の音をちょうど聞くものです。

五月雨の空がほんの少し晴れて来て、夕月夜がかすかに見え、まがきが島も間近に見えます。漁師が小舟を連れだって漕ぎ帰り、魚を分け合う声がするのを聞くと「つなでかなしも」と古人が詠んだ気持ちがわかり、とても哀れであることです。

※「みちのくはいづくはあれどしほがまの浦こぐ舟のつなでかなしも」東歌(新古今和歌集)

その夜、盲目の法師が琵琶をならして、仙台浄瑠璃というものを語りました。平家琵琶でもなく、幸若舞でもなく、田舎めいた調子で声をはり上げて語るので、枕元の近くでうるさいのだけれど、さすがに片田舎の地に残されている風土の芸能を忘れずに伝えていることに心を打たれました。と書いています。

そして、次の朝早くに、塩がま明神に参詣しています。伊達政宗が修造されて、その宮柱は太くクヌギのたるきがきらびやかで、石の階段はとても高く続き、朝の日が明ける頃の神殿の垣を輝かせています。

このような道の果ての片田舎であっても、神様のご利益が、あらたかであられることこそ我が国の風俗であり、大変に貴いことと思います。

神前には、古い灯篭があります。そして、金属の扉の面に「文治三年和泉三郎寄進」とあります。

五百年来の俤が、今にも目の前に浮かんで、なんとなく珍しいものです。

かれは、勇、義、忠、孝を兼ね備えた武士であります。誉高い美名は、今にまで言い伝えられて多くの人に慕われつづけています。

誠に「人は、よく道理をわきまえた行いをし、節義を守るべきである。名声もまたこれに自然についてくる」と言います。

日はすでに午後近くになってしまい、舟で松島にわたります。その間、約二里余りで、芭蕉一行は雄島(をじま)の磯に着いたのです。