芭蕉の旅「奥の細道」No20・最上川から羽黒山、酒田へ

最上川から羽黒山、酒田へ

最上川の川下りに乗ろうと思い、大田石という所でちょうど良い天候になるまで待つことになりました。

ここには、その昔から古の俳諧の種がこぼれ落ちていて、忘れられない華やかなりし頃の昔を恋しく思い、奥まった田舎の風流にひたる声を静めて、この道を探し躓き、古今俳諧の道に踏み入り迷ったと言うけれども、道標とする人もすでになく、やむを得ず一巻を残しています。

今回の風流な道では、こうした句を生み出す結果に至りました。

とこの「奥の細道」の中で有名な句の原句を詠んでいます。

最上川はみちのくから流れ出して山形を水上とします。途中にはごてん、はやぶさなどという恐ろしい難所があります。

板敷山の北を流れて、果ては酒田の海へ注ぐ川です。

左右には山が覆い、茂みの中を舟で下ります。この船には稲は積んではいけません。変わった舟だと言われてしまうのが習わしなくらいに、急流で有名なのです。

白糸の滝は、青葉の木々のあいだを落ちていて、仙人堂が岸に臨んで建っています。

この時期の川下りは、水嵩が満ちていて舟下りが危ないほどでした。

そこで、芭蕉は一句詠んでいます。ここでの一句は、中七の推敲が有名で、前日に巻いた時の句を、実際に川下りを体験したあとの臨場感で見事に推敲しています。

そして、6月3日、羽黒山に登ります。

図司佐吉という者を訪ねて、別当の代理京都の人会覚阿闍梨にお目にかかりました。

そして、南谷の別院に宿をとります。情けに厚く慈悲深い主のおかげで、4日、坊舎にて俳諧興行が行われ、

そこでの一句を芭蕉は「奥の細道」に書いています。

翌5日、羽黒権現に参詣します。

当山の開祖である能除大師は、いったいいつの代の人であるのかはっきり解らないようです。延喜式(えんぎしき)には「羽州里山の神社」とあり、書き写すときに「黒」の字を「里」としてしまったのでしょうか。羽州黒山を中略にて羽黒山というから「羽黒権現」なのです。出羽というのは「鳥の羽毛を、この国の貢ぎ物に献上する」と風土記に書かれてあるので羽を出すという意味かららしいのです。そして、月山、湯殿を合わせて出羽三山としています。

この寺は、江戸の東叡山に属していて、天台宗の教えである止観の月のように明るくてらし、円頓融通の法の灯をかかげてあり、僧坊が棟を並べて隆盛しています。

修験者は修業に励んでいて、人はこうした霊山霊地に有り難い後利益があると、貴びながらも恐れをいだいています。この繁栄はいつまでも続くと思われ、実に立派なお山であるというべきでしょう。

8日、月山に登ります。

木綿注縄を首にかけ、宝冠に頭をつつみ、強力という者に先導されて、雲が霧のように立ち込める山の中を、氷雪を踏み締めて八里ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうのかと思いながら、息絶え絶えに身も凍えるほどに冷え切って頂上に到着しました。すると日は沈み月が顕れています。そこに笹を敷、篠竹を枕として臥して夜が明けるまで待つことにしました。

そして、日が昇り雲が晴れたので湯殿まで下りました。谷のかたわらに鍛冶屋の小屋がありました。

この国のかじは、霊水を選んでここに身心を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を切って世間から賞賛されています。あの竜泉に剣をにらいでもらいたいものです。

干将莫耶(かんしょうばくや)の二振りの名剣の昔を慕い、その道に熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切として良く知られた話です。

岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺ばかりの桜が、莟を半分ほど開きかけていました。降り積る雪の中に埋もれながら、春を忘れずに花を開こうとする遅桜の花の心は、やるせないものです。

「炎天の梅花」がここで花の香りを匂わせているようです。行徳僧正の哀れな歌も、ここに思い出し尚更この桜が一層哀れ深く感じられています。

すべて、この山中でのささやかなことまでも修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられています。そのため、これ以上は筆を止めて書き記すことはできません。麓の宿坊に帰れば、阿闍梨の求めにより、三山順礼の句をいくつも短冊に書くのでした。そして、芭蕉三句、曾良一句を「奥の細道」には書き記されています。

羽黒を出てから鶴ケ岡の城下を通り長山氏重行という武士の家に迎えられ、俳諧一巻を巻きます。この者は左吉の縁者で左吉も一緒になって芭蕉一行を見送ります。

川舟に乗って、酒田の港まで下ります。淵庵不玉という医師のもとを訪ねて宿をかります。そこで、芭蕉は二句詠んでいます。