芭蕉の旅「奥の細道」No25・那谷、山中へ

那谷、山中へ

山中温泉へと向かいます。途中には、白根山を後にして更にその先へと歩き続けます。

すると、左の山際に観音堂がありました。これは、第六十五代天皇の花山の法皇だといいます。三十三か所の順礼を成し遂げた後に、千手観音菩薩の像を安置された折に那谷(なた)と名付けられたと言うことです。那智・谷汲の二文字を取って那谷と名付けられたのだそうです。この那智寺には、さまざまに珍しい石があり、古い松がきちんと並べられて植えられていて、観音堂は茅葺の小さな堂です。そして、岩の上の地に造られてあり、尊くありがたい地であると感慨にひたり、ここで芭蕉は一句詠んでいます。

そして、山中温泉にたどり着きます。

この温泉はとても効能があると言われています。その価値は有明けの次にも値するであろうと芭蕉は言います。

そこで、まず一句芭蕉は詠んでいます。

この宿の主は、久米之助と言う者で、まだ十四歳の童でした。この者の父は俳諧を好んでいたという山中温泉の十二宿の一つを営んでいました。

そこに、その昔、貞門俳諧の門人として有名な貞室が、まだ名を成さない若輩であったころに、この地に来ていたが、ここでは風雅に辱しめられてしまったため、京に帰りやがて成功したといいます。

そうして、その後に、この一村を判詞として請けられたといいます。今では、もう昔ばなしとなってしまった話のようです。

曾良は、長旅の疲れで腹の病にかかってしまい伊勢の国の長島という所にゆかりの者がいるので、そこへ先に行くことになり一人で旅立つのでした。

そこで、曾良が別れを惜しみ一句詠んでいます。

そして、行くものの悲しみ、残るものの恨みは、二羽の鳥が離れ離れとなり空に浮かぶ雲に迷ってしまうようであると、芭蕉もここで一句詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No24・小松

小松

小松という所に着いて、ここでは先ず一句芭蕉が詠んでいます。

そして太田神社に参詣しました。実盛(さねもり)の遺品である、甲、錦の切れはしがここにはあります。

その昔、源氏に属していた時代に義朝公(よしともこう)より賜ったものだと言います。

まことに平武士のものとは思えないほど立派です。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊唐草のほりものがしてあり、黄金をちりばめてあります。

竜頭には鍬形が打ち付けられているのです。真(実)盛の討ち死にした後に木曽義仲の願い状に添えて、この社に献上されたものだと言われます。

樋口の次郎が使いをした事などと共に、当時の事が目の前に見えるかのように由来や起こりとして書いてあります。

そこで、一句芭蕉が詠んでいます。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No23・金沢

金沢

卯の花山、くりからが谷を越えて、金沢へは7月15日となりました。

ここに大阪から通う商人で何処という名の者がおりました。その者と旅の宿をともにします。ここでの商人何処という人物は句が残されていて蕉風の俳人であったかも知れません。

兎に角、金沢では蕉門の俳人達との再会が楽しみでした。

ことに、名を一笑という者は、小杉一笑という俳人で、この道に詳しい人には多少名の通った人物で、世間では知る人もいたであろうに、芭蕉が訪れるのを待たずに去年の冬に早くもなくなってしまったとのことです。その兄が追善に冥福を祈り句会を催しました。

芭蕉は、三十六歳の若さで死んだという話に深い悲しみを感じて句を詠んでいます。

その際に「奥の細道」に芭蕉3句を書き記しています。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No22・越後路から一振、那古の浦へ

越後路から一振、那古の浦へ

酒田から何日か波の寄せ来る道を進み、北陸道を雲上へと望み行きます。やっとの思いで胸を傷つけられながら、加賀の府金沢まで百三十里。ねずの関を越えれば、越後の地に改めて足を踏み入れ、越中の国一振りの関に至ります。この間、9日かかり暑さと雨に降られた苦労に神の運命までも悩まして、持病がおきてしまったので、ことを記すことが出来ません。しかし、そこで芭蕉は二句を残しています。

それでも今日は、親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなどと言う北国一の難所を越えて疲れてしまい枕を引き寄せるように眠りましたが、ひと間隔てておもての方に、二人ばかりの若き女の声が聞こえます。年老いた男の声も混じり何やら話ているような様子なので聞いてみれば、越後の国の象潟という所の遊女であるよう。伊勢参宮の折にこの関まで男が送って来て、明日は故郷へ返すための文をしたため儚い伝言などをしているようです。

白波が寄せる汀に身を慰みに合わせ、天下の世をあさましくも下って来て、定めのない契りに、このように遊女となってしまった。まったく先の世の因果な業によるものと、この世の運の悪さを物語っていたましたが、それを聞きながら、芭蕉はうとうとと寝入ってしまい、朝には旅立つ芭蕉一行に「行方も知らない旅路の苦しいことを思うと、あまりに不安であやふやで悲しいのですが、見え隠れしながらあなた様の後を恋しく付いてゆきたく思います。僧侶としての御情に大きな仏の御心の恵みで、仏の道に入る機会の縁を下さいませ」と涙を落としながら言うのでした。

とても困ったことであったが、「我々の旅は行く先所々なかなか進まないことも多いものです。只人に行方を尋ねながらまかせて行くようなものです。そのお心に神様仏様の御加護がありますよう。きっと恙なく過ごせることでありましょう。」と、とっさに言ってあげましたが、出て行こうとしながら、しばらくの間は哀れでしかたがなかったようです。

そこで、芭蕉は一句詠んでいます。曽良にこの句を語り、曾良がそこに書きとどめるのでした。

その後、とくろべ四十八が瀬とか言う数知れぬ程の沢山の川を渡って、那古と言う浦に出ました。

担籠の藤浪という所は、春でもまるで初夏のような哀を感じるのだと聞き、そこを人に尋ねれば「そこへは是より五里、磯を伝ってゆくと対岸に入り、海女の苫屋もさほどないので一夜の宿をかすものも無いでしょう」と脅すように言われて、加賀の国へと入ります。

そして、ここで一句芭蕉が詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No21・象潟

象潟

大河と山、水上と陸地の風光明媚な場所が数限りなくあると言う象潟へと、今、心が急き立てられます。

酒田の港より東北の方へ山を越えて磯を伝って砂ばかりの地を踏みしめながら進み、その際の距離十里、日の影が少し傾く頃、汐風がこまかい砂を吹き上げ、雨が降りぼんやりと暗く出羽富士と言われる鳥海山が隠れています。暗中に模索して「雨もまた珍しいものだ」とすれば、雨の後の晴れた景色も又頼もしいものだと、海女の苫屋に膝を割り仲間に加わり雨の晴れるまで待っていました。

その翌朝は天まで良く晴れて、朝陽が指し込んできて辺りを明るく美しくして、象潟に舟が浮かぶ姿が見えます。

まずは能因島に舟を寄せて、三年間世事から離れて暮らしていたという跡を心配して聞くと、向こう岸に舟から上がれば「花の上こぐ」と詠まれた桜の老木があり、西行法師の記念であると残されていました。入り江の上には墓所があります。神功后宮の御墓だといいます。その寺を干満珠寺といいます。

この場所に天皇がこられたことは未だに無いと言われています。いったいどうゆう事でしょうか。この寺の一丈四方の居所にすわり、簾を捲き上げれば、その風景は一目で見渡せてしまい、南に鳥海山が天をささえて、其の陰を入り江にうつしています。西には、むやむやの関が路の果てに見えて、東には堤を築いて、秋田へ続く道がはるかに見え、海を北にかまえて波が打ち寄せる所を汐こしといいます。

この入り江は、縦横およそ一里ほどで、松島にどこか俤が似ているかと思えば、又違うようでもあります。

松島は笑うようで、象潟は恨むように見えます。寂しさに悲しさを加えて、その地のありさまは憂いに沈む美人の風情のようだとあります。

ここでは、芭蕉が二句詠んでいます。

更に「祭礼として」と曾良やみのの国の商人低耳が句を詠んでいます。

そして「岩の上の雎鳩(みさご)の巣をみる」として曾良が詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No20・最上川から羽黒山、酒田へ

最上川から羽黒山、酒田へ

最上川の川下りに乗ろうと思い、大田石という所でちょうど良い天候になるまで待つことになりました。

ここには、その昔から古の俳諧の種がこぼれ落ちていて、忘れられない華やかなりし頃の昔を恋しく思い、奥まった田舎の風流にひたる声を静めて、この道を探し躓き、古今俳諧の道に踏み入り迷ったと言うけれども、道標とする人もすでになく、やむを得ず一巻を残しています。

今回の風流な道では、こうした句を生み出す結果に至りました。

とこの「奥の細道」の中で有名な句の原句を詠んでいます。

最上川はみちのくから流れ出して山形を水上とします。途中にはごてん、はやぶさなどという恐ろしい難所があります。

板敷山の北を流れて、果ては酒田の海へ注ぐ川です。

左右には山が覆い、茂みの中を舟で下ります。この船には稲は積んではいけません。変わった舟だと言われてしまうのが習わしなくらいに、急流で有名なのです。

白糸の滝は、青葉の木々のあいだを落ちていて、仙人堂が岸に臨んで建っています。

この時期の川下りは、水嵩が満ちていて舟下りが危ないほどでした。

そこで、芭蕉は一句詠んでいます。ここでの一句は、中七の推敲が有名で、前日に巻いた時の句を、実際に川下りを体験したあとの臨場感で見事に推敲しています。

そして、6月3日、羽黒山に登ります。

図司佐吉という者を訪ねて、別当の代理京都の人会覚阿闍梨にお目にかかりました。

そして、南谷の別院に宿をとります。情けに厚く慈悲深い主のおかげで、4日、坊舎にて俳諧興行が行われ、

そこでの一句を芭蕉は「奥の細道」に書いています。

翌5日、羽黒権現に参詣します。

当山の開祖である能除大師は、いったいいつの代の人であるのかはっきり解らないようです。延喜式(えんぎしき)には「羽州里山の神社」とあり、書き写すときに「黒」の字を「里」としてしまったのでしょうか。羽州黒山を中略にて羽黒山というから「羽黒権現」なのです。出羽というのは「鳥の羽毛を、この国の貢ぎ物に献上する」と風土記に書かれてあるので羽を出すという意味かららしいのです。そして、月山、湯殿を合わせて出羽三山としています。

この寺は、江戸の東叡山に属していて、天台宗の教えである止観の月のように明るくてらし、円頓融通の法の灯をかかげてあり、僧坊が棟を並べて隆盛しています。

修験者は修業に励んでいて、人はこうした霊山霊地に有り難い後利益があると、貴びながらも恐れをいだいています。この繁栄はいつまでも続くと思われ、実に立派なお山であるというべきでしょう。

8日、月山に登ります。

木綿注縄を首にかけ、宝冠に頭をつつみ、強力という者に先導されて、雲が霧のように立ち込める山の中を、氷雪を踏み締めて八里ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうのかと思いながら、息絶え絶えに身も凍えるほどに冷え切って頂上に到着しました。すると日は沈み月が顕れています。そこに笹を敷、篠竹を枕として臥して夜が明けるまで待つことにしました。

そして、日が昇り雲が晴れたので湯殿まで下りました。谷のかたわらに鍛冶屋の小屋がありました。

この国のかじは、霊水を選んでここに身心を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を切って世間から賞賛されています。あの竜泉に剣をにらいでもらいたいものです。

干将莫耶(かんしょうばくや)の二振りの名剣の昔を慕い、その道に熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切として良く知られた話です。

岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺ばかりの桜が、莟を半分ほど開きかけていました。降り積る雪の中に埋もれながら、春を忘れずに花を開こうとする遅桜の花の心は、やるせないものです。

「炎天の梅花」がここで花の香りを匂わせているようです。行徳僧正の哀れな歌も、ここに思い出し尚更この桜が一層哀れ深く感じられています。

すべて、この山中でのささやかなことまでも修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられています。そのため、これ以上は筆を止めて書き記すことはできません。麓の宿坊に帰れば、阿闍梨の求めにより、三山順礼の句をいくつも短冊に書くのでした。そして、芭蕉三句、曾良一句を「奥の細道」には書き記されています。

羽黒を出てから鶴ケ岡の城下を通り長山氏重行という武士の家に迎えられ、俳諧一巻を巻きます。この者は左吉の縁者で左吉も一緒になって芭蕉一行を見送ります。

川舟に乗って、酒田の港まで下ります。淵庵不玉という医師のもとを訪ねて宿をかります。そこで、芭蕉は二句詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No19・立石寺

立石寺

旅はいよいよ山形へ入ります。そこには立石寺という山寺があります。慈覚大師が開かれたとされている、特別に清閑な地です。

多いに一見にする価値があると人に勧められて尾花沢から、わざわざ南へ下り、その間およそ七里。日はまだ暮れていません。麓の宿坊に泊まることにして、山上のお堂に登ることにしました。

岩には更に険しい巌を重ねて山と連なり、松は古く大木となり、土石は長く老いて苔に覆われています。山上の十二院は扉を閉ざし、物音ひとつしません。崖をめぐり岩場を這って仏閣を参拝すると、素晴らしい景色はひっそりともの淋しく心がただただ清められてゆくのみと感じるとあります。

そしてここで、一句芭蕉は詠んでいます。

芭蕉の旅「奥の細道」No18・尿前の関から尾花沢へ

尿前の関から尾花沢へ

南部街道をはるかに見て、岩手の里に泊まります。

小黒崎、みづの小島を過ぎて、鳴子温泉から尿前の関にさしかかって、出羽の国へと越えようとしました。

この道は、旅人も少ないところで、関守に怪しまれましたが、何とかやっとの思いで関所を越えます。

大山を登って日がもう暮れてしまい国境を守るお役人の邦人の家を見つけて旅の宿として泊まらせてもらえないかと頼みます。

それから三日は雨や風が荒れて山中の旅路を進むことが出来ずにとどまるしかありません。芭蕉は、ここで一句詠んでいます。

その家の主が云うには、ここから出羽の国までは大山を隔てて道もはっきりしていません。案内の人を頼んで越えた方が良いでしょうとのことです。

それでは、人を頼まなければと頼んだところ、たいそうな力の強そうな若者が、刀身にそりのある脇指しをよこたえ、樫の木の杖をたずさえて、我々のさきに立って進んで来ます。今にも危ない目にあうのではないかと、内心びくびくしながらその案内人の後をついて行くのでした。

まったく主の言う通り、山道は高く、森は深々として、鳥の声ひとつしません。木下闇は草々と茂り、まるで夜のようです。

あたかも雲のはしに砂ぼこりが降るような気持ちで、群がり生える篠竹の中を踏み分け踏み分け、水に濡れている渡り岩に躓き、肌には冷たい汗を流して、やっとのことで最上の庄に出ました。

あの案内人の男の若者が云うには「この道は、必ずと言っていいほど思いもよらない事が起こる物です。何事もなくここまでこられてまったく幸なことです。」と喜び、そこで別れています。

後から聞いても、胸をなでおろすようなびっくりするような思いです。

そうして尾花沢に清風という人物を訪ねることになります。

彼は、裕福なお金持ちで、しかも志は決して下品ではなく、都に時折やって来ていて、さすがに旅の情けも良く知っています。そんな日ごろの経験から、芭蕉一行の長い道のりを労わり、さまざまなもてなしをしてくれたとあります。

そして、ここでは芭蕉が三句、曾良が一句詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No17・平泉

平泉

三代の栄華も一夜の眠りの中にして、南大門のその跡も今では一里ほど手前にあります。

秀衡の伽藍御所の跡は田や野になってしまい金鶏山だけがその形を残しています。

先ずは、高館(たかだち)に登れば、北上川は盛岡の方から流れて大河となっています。衣川は和泉が城をめぐり、高館の下あたりで大河に流れ落ちて合流しています。

泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部の関門をさし堅め、夷をふせぐものと見えました。

そして、義経の忠臣である弁慶や兼房らが、この城にこもり手柄を上げたことも一時の功名であり、今では草むらとなっていました。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠を打つひしがれて、時を忘れるほど涙を落したということです。

ここで、芭蕉はこの感慨を一句に詠んでいます。

そして、曾良もここでは一句詠んでいます。

しかも、聴いて驚いたことに、中尊寺の光堂と経堂の二堂が開帳されています。

七宝は散りじりになくなり、宝石の扉は風に破れ、金の柱は霜や雪に朽ち果てて、すでに退廃して空虚な淋しい草むらであるものを、

四面を新たに囲んで屋根を覆い、雨風をしのぎ、永久の時の流れの中で、何とか凡そ千年ほどのかたみとはなるでありましょう。

とここで、一句芭蕉は読んでいます。

 

※「」内は中国の詩人である杜甫の詩より

 

芭蕉の旅「奥の細道」No16・石の巻

石の巻

12日、平泉を目指し進みます。姉歯の松、緒だえの橋など歌枕に言い伝えられている、なかなか見ることん出来ない景観に、雉や兎の猟師や草刈りや木こりまでもが行き来する道が、いったいどこにあるのか解らないような山奥で、しまいには道を間違えてしまいました。

とうとう石の巻という港に出てしまいます。「こがね花咲」とお読みする金花山という島を海の上に見渡し、数百もの輸送船がこの入り江に集まり、人の住む家は所せましとひしめき、かまどの煙は途絶えることが無いほど立ち続けています。

思いもよらずにこの地に来てしまったものだと芭蕉は宿をとろうとしますが、宿もいっぱいでなかなか取れません。やっとのことで貧しい小家に一夜をかり、夜が明ければ、また知るすべもない道を迷いながら行くのでした。

北上川の渡し場をわたり、尾ぶちの牧、真野の萱原などを横目に眺めながら、はるかに続く堤を行きます。心細くなりながらも長い沼に添って進み、戸伊摩という所に一泊して、平泉へと至りました。

その間、二十里余りもあったと芭蕉は覚えているとあります。