「奥の細道」その後

「奥の細道」の旅を大垣に行き着いて、そこで終了していますが、大垣から江戸までは、かなりの距離です。
もう一度、今度は江戸へ向かって旅をしなければなりません。

この後、いったい芭蕉はどうしたのでしょうか?

一説によると、「奥の細道」の最後の大垣の章には、伊勢神宮の遷都を見にお伊勢参りに向かいとあります。

けれども、これまでの旅の疲れもあり、先ずは故郷の伊賀上野へ行き、そこで疲れを癒したと言われています。そして、大津の木曽義仲の眠る義仲寺へ行きます。そこから大津岩間山の山中の幻住庵を訪ねます。そして、この庵に四か月ほどのんびりとした時を過ごし「幻住庵記」を残しています。そこから、京都を巡り伊勢まで行きます。伊勢では西行が庵を結んだという二見ヶ浦に立ち寄っています。

これは、記録では大きな紀行文としての旅ではないようですが、この時期に嵯峨落柿舎に滞在中の日記として「嵯峨日記」を書き記しています。芭蕉四十八才四月十八日から五月四日までとされています。そして、やはり江戸へ戻るのですが、この時にはすでに芭蕉庵は人手に渡ってしまっています。

そこで、すぐ近くに新たな芭蕉庵を新築します。そして、約二年半をその新たな芭蕉庵で過ごしています。

その後、芭蕉は最後の旅に出ます。これは西国を巡る長い旅の予定でした。しかし、この旅の途中で芭蕉は息を引き取ります。大阪の御堂筋とされています。そして、その墓は、芭蕉の意志により滋賀県大津市にある木曽義仲の墓のある義仲寺に今でも埋葬されているといいます。

そして、その後の1695年元禄8年には「芭蕉翁行状記(ぎょうじょうき)」が刊行されています。