芭蕉の食の俳句「茄子」

芭蕉の食べ物俳句に、茄子の句を見つけました。

茄子は夏の季語ですね。

そろそろ美味しい季節かと思います。

江戸時代の芭蕉は、茄子でどんな句を詠んでいるのか見てみましょう。

 

秋涼し手毎にむけや瓜茄子

めづらしや山を出羽の初茄子

 

これは茄子を「なすび」と呼んでいますね。まづ初めの句ですが、出だしの上五から季節がずれています。「秋涼し」とは、勿論、秋の季語です。なのに最後の下五で「瓜茄子」で締めています。これは「うりなすび」となりますね。うりとなすとしても、どちらも夏の季語なのです。これでは季感が合いません。芭蕉は、夏の終わりから秋の初めに、すでに良く熟した瓜や茄子を手でそのまま向いて食べれるようになったという季節の移り変わりを詠みたかったのではないでしょうか。なすにはうりのような細長い品種があることも考えられますね。けれども江戸時代のことですから、瓜は今の胡瓜かもしれません。

次の句は前回の食の句のブログにも含まれていた句です。芭蕉が「奥の細道」で出羽に行った時の句です。ここでは「初茄子」なので初夏でしょう。季感ははっきりしますし、まとまった句ですね。出羽三山が浮かびますね。

ここで、もう一句見つけたのでご紹介します。

 

梅若菜鞠子の宿のとろろ汁

 

この句は「とろろ汁」を詠んでいます。これは、芭蕉が奥の細道のあとの猿蓑で読んでいる句ですから、東海道丸子の宿だと思われます。古来から有名な「とろろ汁」は、丸子の宿が名産地なので季語では秋ですが、どうやら梅が咲く若菜の頃でも食べられていたようですね。これも、最初の「秋涼し」の句のように季重なりなので季感がはっきりと解らない句です。それでも、春の季語から始まっているところから、春の句なのではないかと考えられますね。

このように食べ物は季節感が豊富なので、さまざまな解釈が考えられて面白いですね。

最後に少し面白い茄子の成句を揚げておきましょう。

 

瓜の蔓に茄子はならぬ

秋茄子は嫁に食わすな

なんて言われているのですね。案外、芭蕉も知っていた成句かも知れません。

 

 

 

 

ふるさとの旅・九十九里浜

生まれ故郷・九十九里浜

  炎帝の召され九十九里浜の朝            上野貴子(ページタイトル画にて)

人はいつでも心のどこかに、自分の生まれ育ったふるさとの思い出を大切にしまい込んで、変わりゆく日常の暮らしに追われ忙しなく生きているものです。そんな毎日の狭間で、ふと立ち止まってみると、そこには時を越えたふるさとの思い出が心の奥底からこみ上げてきて、まるで幼い少女の頃にでもタイムスリープしてしまったかの様な気持ちになります。

  ゆく春の落書きたどり記念館            上野貴子

私の故郷にはいとうさちおと言う郷土の偉人が居て記念館が有名ですが、この記念館の歌碑を思うと、まるで時が止まってしまったような歴史の重みに胸が切なくなります。

  太陽の昇る町へと花峠               上野貴子

そして、そんな故郷から都会の町へ夢を抱えて上京した学生時代を思い出すのです。

  海までの道を青田の波そよぐ            上野貴子

いつまでも変わることの無い永遠のふるさと、それはかけがえのない心のまほろばと言えるに違いありません。

(Mahoroba・No4,2010年掲載より)

「奥の細道」その後

「奥の細道」の旅を大垣に行き着いて、そこで終了していますが、大垣から江戸までは、かなりの距離です。
もう一度、今度は江戸へ向かって旅をしなければなりません。

この後、いったい芭蕉はどうしたのでしょうか?

一説によると、「奥の細道」の最後の大垣の章には、伊勢神宮の遷都を見にお伊勢参りに向かいとあります。

けれども、これまでの旅の疲れもあり、先ずは故郷の伊賀上野へ行き、そこで疲れを癒したと言われています。そして、大津の木曽義仲の眠る義仲寺へ行きます。そこから大津岩間山の山中の幻住庵を訪ねます。そして、この庵に四か月ほどのんびりとした時を過ごし「幻住庵記」を残しています。そこから、京都を巡り伊勢まで行きます。伊勢では西行が庵を結んだという二見ヶ浦に立ち寄っています。

これは、記録では大きな紀行文としての旅ではないようですが、この時期に嵯峨落柿舎に滞在中の日記として「嵯峨日記」を書き記しています。芭蕉四十八才四月十八日から五月四日までとされています。そして、やはり江戸へ戻るのですが、この時にはすでに芭蕉庵は人手に渡ってしまっています。

そこで、すぐ近くに新たな芭蕉庵を新築します。そして、約二年半をその新たな芭蕉庵で過ごしています。

その後、芭蕉は最後の旅に出ます。これは西国を巡る長い旅の予定でした。しかし、この旅の途中で芭蕉は息を引き取ります。大阪の御堂筋とされています。そして、その墓は、芭蕉の意志により滋賀県大津市にある木曽義仲の墓のある義仲寺に今でも埋葬されているといいます。

そして、その後の1695年元禄8年には「芭蕉翁行状記(ぎょうじょうき)」が刊行されています。

芭蕉の詠んだ「紫陽草」

もう六月です。この時期はやはり紫陽花が美しいですね。
紫陽花は日本が原産のようです。特に「額紫陽花」が日本古来からの紫陽花のもととなると言われています。
そこで、芭蕉は紫陽花を詠んでいるのかと思いました。
紫陽花の句は「紫陽草」として2句ありました。

紫陽草や藪を小庭の別座敷

この句は元禄七年芭蕉51才の時に詠まれた句です。この頃は人生五十年と言われていた江戸時代にはかなり芭蕉も体が弱っていたころでしょう。最後の旅の送別に催された歌仙の句会の席の句とされています。このあとの秋には病中吟として有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んでいます。

そして、もう1句。

紫陽草や帷子時の薄浅黄

この句は、いつ頃の句なのか不明のようです。年号不知の句とされています。

この二句は今の「紫陽花」と書くあじさいではなく「紫陽草」と書かれていますね。

「あぢさゐ」と平仮名では書かれていたようですが、今のような珠紫陽花ではなくて雪の下のような儚げな四葩だったのでしょうか。色は青から紫色に変化していたのだと解釈できます。

それにしてもこの2句、何故「紫陽草」と表記されているのでしょうか。

現代では、通常「紫陽花」と書きます。なのに、この2句は花ではなく草と書いています。これは芭蕉の書き間違いでしょうか。

そこで、少し調べてみました。

この紫陽花は、昔ながらのユキノシタ科の今の原種といわれている日本特有の額の花ではないかと思いました。万葉集のころからすでに紫陽花はあぢさゐとしては多く詠まれています。

ですから、江戸時代にはこの昔ながらの「額の花」をあぢさゐとして詠んだのではないでしょうか。

そうして、花が草とあるのは、額の花であれば、別名「額草」とも称されているのです。これは「額の花」の別名として三省堂大辞林に確かにあります。

そこから、芭蕉は額を紫陽として花を草としたのではないでしょうか。こう書けば、がくそう=あぢさゐとなります。そして、漢字をあてたのでしょう。

こうしてみると、足元の雨を弾くような儚く移ろい咲く姿が、「草」という字にすることで思い浮かびます。

 

 

芭蕉「奥の細道」行程地図


①芭蕉庵 芭蕉の旅「奥の細道」No1
②千住            No3
③日光            No4
④雲巖寺           No6
⑤白河            No7
⑥福島            No9
⑦仙台            No12
⑧石巻            No16
⑨平泉            No17
⑩立石寺           No19
⑪羽黒山           No20
⑫月山            No20
⑬酒田            No20
⑭象潟            No21
⑮鼠ヶ関           No22
⑯新潟            No22
⑰親不知           No22
⑱金沢            No23
⑲山中            No25
⑳種の浜           No29
㉑敦賀              No29
㉒大垣              No30

※地図上のナンバー表です。
芭蕉が奥の細道でたどった行程を追ってみました。Noは上野貴子の俳句の旅PH内のブログ記事のナンバーです。

 

芭蕉が詠んだ「五月雨」

芭蕉は「奥の細道」の中で、五月雨の句を何句か詠んでいます。

まずは、平泉の章

五月雨の降のこしてや光堂・・・芭蕉

この句は、中尊寺の金色堂を詠んだとされて有名ですね。

そして、もう一句は、最上川の章

五月雨を集めて早し最上川・・・芭蕉

この句は最上川の広大な川下りを詠んでいます。

どちらも「五月雨」ですから五月の頃の句ですね。

芭蕉は、奥の細道で江戸から日光を通り白川の関を越えて松島を巡り、そして中尊寺から山寺、そして更に、最上川を下り日本海の酒田へ出ます。

この二句は、その太平洋から日本海へと日本列島を横断する際に詠まれた二句ですね。

厳しい難所をいくつも歩き、そして、今でも有名な観光地である中尊寺や最上川で詠んでいます。

五月の長雨が降りつづくなかでの旅であったことが読み取れますね。

 

芭蕉の旅「奥の細道」はじめの名文・序章

松尾芭蕉の「奥の細道」は、その初めの名文が、何よりも有名だと言っても良いでしょう。

旅に対する芭蕉の考えや、人生観、そして芭蕉の哲学というものが、象徴的に書き表されていると思います。

この有名な「奥の細道」のはじめの名文を私なりに解釈してみましたので、公開いたしますね。

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

解釈:月日は永遠にとどまることを知らない旅人であり、去ってはまためぐり来る年もまた旅人である。

舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅人にして、旅を栖とす。

解釈:船の上にその身の生涯を浮かべ、馬のくつわを取って引き年老いて行く者などは、毎日が旅人であり、旅に住んでいるようなものだ。

古人も多く旅に死せるあり。

解釈:昔の人も旅に死んでいることが多くあることだ。

予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず、

解釈:私自身もいつのころからか、ちぎれ雲を漂わせる風に誘われて、さすらう思いをとどめることが出来ず、

海浜にさすらへ、

解釈:海や浜べの旅を経て、(「笈の小文」の旅のことである。)

去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、

解釈:去年の秋に、深川の芭蕉庵に蜘の古巣をはっていたものを払って、だいたい年の暮になり、そして、立春となり空に霞がかかる頃には、白河の関所を越えようと、

そゞろ神の物につきて心をくるはせ、

解釈:何となく人の心を誘惑する神にでも取りつかれた様に心が乱れて、

道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、

解釈:旅人を守るという道祖神のお導きに取る物も取りあえず、

もゝ引きの破れをつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

解釈:もも引きの破れているものをつづり合わせて、笠の緒を付け変えて、膝がしらの下の三里に灸をすえてから、松島の月を何よりもまづは見たいと思い心から離れず、住む家は人に譲って、杉風の別荘に移ることになって、

(芭蕉はここで一句詠んでいます。この後に新しく住む庵の住人に対する挨拶句だと言われています。)

面八句を庵の柱に懸置。

解釈:初めの懐紙の表に八句書き記し、庵の柱にかけて、挨拶として置いた。

 

芭蕉の食べ物の句

松尾芭蕉の全句の中から食べ物の句を抜粋してみました。

 

春立や新年ふるき米五升

餅を夢に折結ぶしだの草枕

蒟蒻にけふは売かつ若菜哉

雨の手に桃とさくらや草の餅

種芋の花のさかりに売りありく

蒟蒻のさしみも少し梅の花

似あはしや豆の粉めしにさくら狩

木のもとに汁も膾も桜かな

苔汁の手ぎわ見せけり浅黄椀

蛎よりは海苔をば老の売もせで

雪の魨左勝水ー無月の鯉

水無月や鯛はあれども塩くじら

夏の夜や崩て明しひやし物

小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま

飯あふぐかゝが馳走や夕涼

皿鉢もほのかに闇の宵涼み

鰹売いかなる人を酔すらん

鎌倉を生て出でけむ初鰹

又やたぐひ長良の川の鮎なます

烏賊売の声まぎらはし杜宇

たけのこや稚き時の絵のすさび

あやめ生り軒の鰯のされかうべ

柚の花やむかししのばん料理の間

朝露によごれて涼し瓜の泥

めづらしや山を出羽の初茄子

ちさはまだ青ばながらになすび汁

夕顔にかんぴゃうむいてあそびけり

身にしみて大根からし秋の風

ゑびす講酢売に袴着せにけり

雪の朝独り干鮭を噛得たり

 

今回は約30句です。「俳句」角川の資料から抜粋致しました。難しい句や、季語がややこしい句など、さまざまですが、江戸時代の食生活が垣間見れると思います。

江戸時代には牡蠣や海苔を売り歩く商売があったようで、深川あたりでは取れたての海産物が美味しいようですね。

鮎や鰒も食べていたようです。なかなか豊かな生活ではないかと思います。

蕉門の杉山杉風(すぎやまさんぷう)という人物が江戸は深川の近くで「鯉屋」という幕府に魚を納める問屋を営んでいて、そこに呼ばれた時の句などがあります。

 

ここに、上記の句ではないのですが、もう1句上げておきたいと思います。

明ぼのやしら魚しろきこと一寸

この句は、白魚で有名な桑名で芭蕉41歳に詠んだ句とされています。この句でまず思い出すのが「一寸の虫にも五分の魂」という慣用句です。

小さな物への芭蕉の愛情が感じられますね。

 

鎌倉を生て出でけむ初鰹

他に例句のなかのこの句ですが、この句はちょうど今くらいの初夏の句です。鰹は江戸時代にかなり珍重されていました。そんな鰹の獲れる季節がきて、沖縄から北上して土佐の港に上がり、伊豆へと昇ります。そして、江戸へ上るのです。この句は、そんなシーズンがいよいよ鎌倉から江戸へ来るぞ!という句ですね。「女房を質に入れても初鰹」という江戸川柳を思い出すような威勢の良い句ですね。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No30・大垣

 

大垣

露通もこの港にまで、出迎えに来て、美濃の国まで御伴してゆくことになりました。

小さな馬に乗り旅の助けとしながら大垣のいなかへと入れば、曾良も伊勢よりやって来ていて、ここで合うことが出来ました。

越人(えつじん)も馬を走らせて来ています。如行(じょこう)の家へたどり着いて、皆が集まることになります。

前川子(ぜんぜんし)、荊口父子(けいこうふし)、その他に親しき人々は、日夜心配して、まるで生きかえる者に合うかのようであったといいます。

長くて厳しい今度の旅を終えたことを、悦び且つ労わりました。

旅の辛さもまだ冷めやらぬうちに、9月6日にもなれば、早くも伊勢の遷宮を拝みたいと思い、芭蕉は、又、舟に乗り旅立つのでした。

そして、ここに最後の一句を詠んで「奥の細道」を書き終えています。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No29・敦賀から種の浜へ

 

敦賀から種の浜へ

しだいに白根が嶽が隠れて、比那が嵩が表れて来ます。

浅水川(あそうずがわ)に架かっている橋を渡り、玉江の芦にはもう穂が出ている頃となりました。

鶯の関を過ぎて、湯尾の峠を越えれば、燧ケ城、かえる山には初雁の鳴く声を聞いて、十四日の夕暮れに、敦賀の港に宿をとります。

その夜は月が、殊のほか明るく照らし「あすの夜も、こうであってほしいものだ」と言うと、「越路の習いで、明日の天気は読めないものです。」と言い、宿の主に酒を進められて、けいの明神の夜祭にお参りに出かけます。

この神社は仲哀天皇の御廟(ごびょう)だと言います。社頭神はさびて、松の木の間から月の光がさしていて、真っ白な霜がかかっているようです。

その昔、遊行二世の上人が、大願発起した事があり、みずから草を刈り、土石を荷って、ぬかるみやどろをかわして、参詣の人や往来の者達を通りやすくしたという事です。

この古い例は、今でも絶えず語られています。

神前に細かい真砂を運ばせ「これを遊行の砂持と申します。」と亭主が話してくれました。

そこで、芭蕉は一句詠み、翌十五日は、亭主の話も残念ながら雨が降り

そこでまた、芭蕉は一句詠でんでいます。

そして次の十六日は、空は晴れて小貝を拾おうとして、種の浜に舟を走らせます。浜へは海の上を七里ほどかかります。

天屋五郎右衛門とやら言うもの、破籠、小竹筒など、細かな物まで準備して、使いの物など皆で舟に乗り、追い風にあおられながらちょうど良く浜に着きました。

浜にはわずかな海女の小家があり、侘しいたたずまいの法花寺があります。

ここでお茶を飲んで、酒を温めて、夕暮れの寂しさを感じるまでを過ごし、ここで芭蕉は、二句詠んでいます。

そして、その日のあらましを等裁の筆にしたためさせ寺に残しています。