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このブログでは、俳句の旅をWebで公開してゆきたいと思います。
旅の俳聖といえば松尾芭蕉です。芭蕉は生涯に千句余りの句を残したといわれていますが、この俳句の旅のブログでは、そんな芭蕉の俳句を中心に旅を始めたいと思います。

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芭蕉の詠んだ年末の句

成にけりなりにけり迄年の暮

わすれ草菜飯につまん年の暮

年暮ぬ笠きて草鞋はきながら

めでたき人のかずにも入む老のくれ

年の市線香買に出ばやな

月雪とのさばりけらしとしの昏

旧里や臍の緒に泣く年の暮

皆拜め二見の七五三をとしの暮

盗人に逢ふたよも有年のくれ

魚鳥の心はしらず年わすれ

分別の底たゝきけり年の昏

古法眼出どころあわれ年の暮

 

芭蕉が師走も押し迫った年末の句として「年の暮」を詠んだ句は約12句ありました。年の市や年忘れも含めて抜粋致しましたが、毎年、それぞれの年末の様子が垣間見れます。

年の暮には、芭蕉も魚や鳥を食べて無礼講だったのか、動物を憐れんでいる句が印象的です。

旅の俳聖だけあって旅先で年末を迎えることもあったようですね。見知らぬ土地での切なさを感じる句もあります。

ふだんの旅吟よりどこか切ない年の終わりを惜しみつつ、来る年を待ちわびている芭蕉の気持ちが、時を越えて今の平成に生きる私達にも伝わって来ますね。

 

俳句575第六回「切れ字って何」勉強会

俳句575第六回「切れ字って何」勉強会
~~~著:中井(なかい)三(み)好(よし)「口語体俳句論」より考える~~~~

今回は切れ字「や」「かな」「けり」という切れ字に否定的な本を見つけたので、ご紹介致します。

その本はまさにタイトルから『「や」「かな」「けり」捨ててこそ・・・・』となっていて、思わずAmazonで見つけて買ってしましました。

読んで見ると、確かに「や」「かな」「けり」を捨てて文語体の呪縛から脱しふだん着のことばで・・・という帯文が付いています。

やはり、この作者も切れ字を避けようとすると、そこには文語体という大きな壁が立ちはだかっていて、これを乗り越えるためには、他の文章同様に口語体を使うべきだという考えをお持ちのようです。

俳句が正岡子規の時代に、革新的な変革を遂げたのは、文明開化という大きな時代からの要請であり、必然的に大きく変わって行きました。けれども、言語活動の変化とは違い、俳句では今でも文語体と口語体がごちゃ混ぜで、明確に分かれてはいません。

そこで、日常の生活からすでに文語体は消えていると明言されています。確かに、今の生活の中には、文語体はすでに古典のみです。

そこで、俳句の世界が停滞し衰退してゆかないためには、生きた言葉で、気軽に表現してゆくことが大切なのです。

「や」「かな」「けり」がたった十七文字に含まれてしまえば、自ずと文語体となります。それを文語体とならない生きた俳句として詠むためには、たった十七文字を上手くまとめ上げなければなりません。

この作者は、口語体で俳句を詠むことは、必ずしも自由律俳句では無いと述べています。575の定型のリズムを崩さずに口語体にまとめるためには、切れ字は必要がないと考えているようです。このような考え方は、おしゃべり感覚で今の言葉で俳句を詠もうと考えている私の考えにも通じるものがあります。

575の定型が必ずしも文語体である必然性を生み出すとは思えないという考えが、私の想う所なのです。言葉のリズムは、文字に書くよりもおしゃべり感覚の会話調の中から自然に生み出されてゆきます。現在の文章の書き方は、すでにそうなっています。

ですから、俳句でも現代の人間が、現代に生きている自分の言葉で俳句を詠むのですから、自ずと口語体が思い浮かぶはずです。ことさら切れ字を取って付けたように乱用することは良く無い傾向だと考えます。

これまで、芭蕉の「奥の細道」をたたき台にして、切れ字の考察を続けて来ましたが、ここにおさらいしてみると

切れ字「や」の数が二十九句もある。・・・・・・上五に多く使われている。

切れ字「けり」はほとんど無いと思われる。

切れ字「かな」は八句。・・・・・・・・・・・・下五に使われている。

切れ字の無い句が十五句。

となっており「や」「かな」「けり」の切れ字では、「や」の次が、切れ字が使われて無い句となり十五句もありです。つまり、「や」は多いけれども、他には、無い方が多いという結果です。

芭蕉の時代からすでに、575のリズムに区切りながら十七文字に上手くまとめることが俳句のまとめ方であり、必ずしも切れ字を使わなければならないと言う決まりではなかったようですね。

今回は、「口語体俳句論」著:中井(なかい)三(み)好(よし)という一冊の本を参考にさせて頂きました。面白い俳句論だと思います。この作者が文中に掲げていらっしゃるように、「や」「かな」「けり」を捨ててこそ、今の時代に生きる、同時代の俳句が詠めるのではないかと共感致します。

おしゃべり感覚の俳句を、これからも多くの方に解って頂けたら幸いだと考えています。二〇二〇年は予想もしなかった新型コロナウイルスのパンデミックとなり、未曾有の状態ですが、これからは、ますます同時代の生きた俳句が求められて行くであろうと考え、またそうあるべきだという考えを、この本を読んで更に強く感じました。この先不透明な不安を俳句修行で拭い去り、必ず来るアフターコロナの時代に備えて行こうではありませんか。必ず新時代に向けての新たな風が巻き起こるに違いありません。

(2020/11/29)

 

2020年12月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : admin

芭蕉の詠んだ五月の一句

芭蕉が「奥の細道」五月を詠んだ句が3句あります。

その中でも一番有名な句が

「五月雨をあつめて早し最上川・・・芭蕉」

この句ではないでしょうか。
最上川の川下りを詠んだ句ですが、この句の原句は
「五月雨をあつめて涼し最上川」だったと言われます。
芭蕉は川下りの船着き場で、まずは原句と言われる句を詠んでいます。
そして、実際に舟に乗り、川を下りその臨場感を
「五月雨をあつめて早し最上川」と推敲したと言われます。
涼しい川の流れを詠んだ原句が
実際に川を下り厳しい渓流のようなその流れの早さを経験して
早しとしています。

五月の雨に水嵩が増していて、川の水を沢山の支流や山肌から集めて流れているその光景は涼し気なだけでは言い表せない動きのあるスリル満点の川下りだったようですね。

他に、「笈も太刀もかざして見せよ帋幟」「笠島はいづこさ月のぬかり道」
の句が奥の細道で詠まれています。

 

小林一茶の詠んだ桜の句

象潟もけふは恨まず花の春    27才
(奥の細道に「松島は笑ふが如く、象潟は恨むがごとし」)
父ありて母ありて花に出ぬ日哉  30才
親ありとこたへてもどる桜哉   35才
花の雲あれが大和の小口哉    36才
としよりの追従わらひや花の陰  41才
こつ~と人行過て花のちる    42才
花ちるやひだるくなりし皃の先  43才
かんこ鳥しなのゝ桜咲きにけり  44才
花さくや足の乗り物手の奴    46才
花さくや欲のうき世の片隅に   48才
夕ざくらけふも昔に成にけり    々
花ちるや権現様の御膝元      々
死支度致せ~と桜哉        々
月花や四十九年のむだ歩き    49才
おのれやれ今や五十の花の春   50才
笠きぬや桜さく日を吉日と    51才
人声にほつとしたやら夕桜    52才
ちる花やお市小袖の裾ではく   56才
花御堂月も上らせ給ひけり     々
桜へと見えてじんじんばしより哉  々
ふらんどや桜の花をもちながら  62才
花の影寝まじ未来が恐しき    65才

小林一茶は信州で生まれ、15歳で江戸に出るが、晩年には故郷へ戻り65才で亡くなっている。

苦労の多い人生であったためか、小動物に対する愛情がひしひしと感じられる優しい愛情のあふれる楽しい俳句が多いが、今年は記録的に開花の早い桜を詠んだ句を探してみた。

沢山ある中の一部ここに記載しました。

一茶らしい解りやすい句が多くて思わず笑い出しそうな楽しい俳句もありますね。

どの句も共感を呼ぶ庶民的な優しさを感じます。

(2020・4・3)

一茶の詠んだ桜の一句

歌人西行は「願わくは花の下にて春死なん その望月の如月の頃・・・西行」と詠んだといわれています。歌人達は桜に酔いしれてさまざまな歌を残していますが、一茶は西行とは違い、小さな雀やお馬などの動物の句が沢山あります。それでもやはり桜見物は江戸の頃にはかなり盛んに行われていましたから、一茶にも桜の句が無いはずはありませんね。

そこで、今回は一茶の詠んだ桜の句を探してみましょう。

まずは、

「桜花 何が不足で ちりいそぐ・・・一茶」

こんな句が見つかりました。この句は七番日記の春に収録されているようです。

まるで今の私達の時代に生きているかのような俳句ですね。

新型コロナウイルスで世の中緊迫しています。自粛自粛で不安な毎日ですが、時は待ってはくれません。

今年は特に桜の開花が早く、もう花吹雪となりそうです。

一茶がどこからか、この句を詠んでいる声がしてきそうな今年にピッタリな桜の句ですね。

芭蕉の詠んだ桜の句より

芭蕉の詠んだ桜の句のなかに

「菜畠に花見顔なる雀哉・・・芭蕉」

1685年貞享二年芭蕉42才の句があります。この句は解釈が難しい句ですが、「菜畠」「花見顔」「雀」と575にそれぞれがポイントとなる言葉を含んでいます。

「菜畠」とは菜の花の畑であろうと考えられますね。

「花見顔」とはお花見で楽しそうな満足顔でしょう。

「雀」ここでは愛らしい村雀か人なつこい小鳥ですね。

それぞれが季節は春と感じさせますが、雀には季節感はないですね。けれども句の意味としては雀がお花見をしているような春を喜んでいる顔に見えるという意味でしょう。

菜畠はさまざまな菜っぱの植えてある畑であるはずです。そこに花が咲いているのかどうかは解りません。もしかしたら、菜の花を桜に見立てて雀を詠んでいるかもしれません。桜の咲く頃には当然菜の花も咲いていますから、ここでは、雀が菜っ葉の畑にいて可愛らしくそこにある桜の木でお花見をしているようだ。そんな桜の花が咲いているような光景が浮かびますね。果たして実際には底に桜は咲いていたのでしょうか。

今年は桜が早いので、田園風景の一齣にこんな自然のなかで咲く美しい桜を目にしました。山に咲く自然の山桜や、畑の中の一本桜など、意外な場所に意外な早さで咲いている桜が目に入りました。

思いもよらない桜の花の早い開花が、新型コロナウイルスでなんでも自粛の時世にまるで浮世絵のように美しく見えますね。

(2020・3・25)

2020年3月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : admin