芭蕉の詠んだ年末の句

成にけりなりにけり迄年の暮

わすれ草菜飯につまん年の暮

年暮ぬ笠きて草鞋はきながら

めでたき人のかずにも入む老のくれ

年の市線香買に出ばやな

月雪とのさばりけらしとしの昏

旧里や臍の緒に泣く年の暮

皆拜め二見の七五三をとしの暮

盗人に逢ふたよも有年のくれ

魚鳥の心はしらず年わすれ

分別の底たゝきけり年の昏

古法眼出どころあわれ年の暮

 

芭蕉が師走も押し迫った年末の句として「年の暮」を詠んだ句は約12句ありました。年の市や年忘れも含めて抜粋致しましたが、毎年、それぞれの年末の様子が垣間見れます。

年の暮には、芭蕉も魚や鳥を食べて無礼講だったのか、動物を憐れんでいる句が印象的です。

旅の俳聖だけあって旅先で年末を迎えることもあったようですね。見知らぬ土地での切なさを感じる句もあります。

ふだんの旅吟よりどこか切ない年の終わりを惜しみつつ、来る年を待ちわびている芭蕉の気持ちが、時を越えて今の平成に生きる私達にも伝わって来ますね。

 

芭蕉の詠んだ時雨の句

1初時雨初の字を我時雨哉
2初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
3旅人と我名よばれん初しぐれ
4時雨をやもどかしがりて松の雪
5世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉
6山城へ井出の駕籠かるしぐれ哉
7作りなす庭をいさむるしぐれかな
8宿かりて名を名乗らするしぐれ哉
9新わらの出そめて早き時雨哉
10白芥子や時雨の花の咲つらん
11人々をしぐれよやどは寒くとも
12一尾根はしぐるゝ雲かふじのゆき
13しぐるゝや田のあらかぶの黑む程

11月になりました。立冬も過ぎて小春日和がぽかぽかと心地よい季節です。
ここでは、芭蕉の詠んだ「時雨」をピックアップしました。冬になると朝晩の時雨が寒さを呼んできます。
ちょうど「小六月」と言われるように「時雨」の季節です。

さて、芭蕉が時雨を詠んだ句は約13句ありました。3の句は芭蕉44才「笈の小文」の句です。旅の俳聖と言われる芭蕉らしい句ですね。秋も深まり冬がやってきた儚い漂泊の身の上を詠んでいます。

こうしてみると時雨には季重なりの句が多いようです。季節が移り変わる晩秋から初冬に詠まれているからでしょう。

芭蕉の句の特徴なのかあまり寒さが厳しくて時雨が冷たいという感じの句は無いように思いますね。これは「時雨」という降ったりやんだりのはっきりしない天候を上手く表しているためにユーモラスな感覚の句となるからなのでしょう。

 

芭蕉が詠んだ朝顔

芭蕉の詠んだ朝顔

朝顔に我は食(めし)くふおとこ哉
三ヶ月や朝顔の夕べつぼむらん
蕣(あさがお)は下手(へた)のかくさへ哀(あはれ)也
朝顔は酒盛しらぬさかりかな
蕣や昼は錠おろす門の垣
蕣や是も又我が友ならず

芭蕉は、朝顔の花を哀れで美しいと捉えているようです。
加賀千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」という名句が浮かびますが、女性の朝の水仕事の句との対比が面白いですね。

朝のご飯の前に早々と咲く朝顔にいとおしさを感じます。

そして、50歳を超えてからの最後の句は、芭蕉の自然を愛でる思いがいつもなら救ってくれるのだが、この時ばかりは「閉関の比(へいかんのころ)」と前書きに記されてあるように、美しく咲く朝顔でさえも友とはなってくれないといいう表現で、「桃印」(芭蕉の甥と伝えられる)を病気で失ったため落ち込んいた気持ちを上手く詠まれていますね。

(2017/8/25)

正岡子規生誕150周年記念

6月も終ろうとしている頃、梅雨の晴れ間の伊予の国へ一泊二日の旅へ行ってまいりました。
伊予の国とは、勿論、四国は愛媛県のことで、中でも松山市の観光名所である道後温泉は文学の地であり松山城がそびえたつ、風光明媚な万葉の昔からの言い伝えの多い町です。今回の旅は、近代の俳句の元祖である正岡子規の生誕150周年記念ということで、子規会館にてイベントが催され、私もそこに出展致しましたので、そのイベントに参加するために出かけました。
正岡子規と言えば知らない方はいない日本文学の偉大な偉人です。
子規は、四国伊予の道後温泉郷で生まれたのですね。同じ年に、夏目漱石も道後の地に生まれ、同級生だったようです。
そんな二人の生誕の地で「至芸の邂逅展」というイベントが開催されました。そのイベントに私も参加したのですが、国内とは言え四国はやはり遠い土地です。
車で行けない者かと考えたのですが、どうにも高速道路をつないでも、関西あたりで一泊必要です。
新幹線はと言うと、案外、乗り継ぎがあり、本土からはやはり海を隔てた遠い土地です。
そこで、今回は飛行機を使いました。
飛行機なら何とビックリ二時間とかからないのです!
驚きですよね!
余りの早さに、時刻表を疑うくらいです。それでも間違いありません。搭乗時間としては約1時間30分くらいなのです。
まさしく、あっという間でした。行には少し梅雨らしい小雨が降っていて、はっきりしない梅雨空だったのですが、四国に着く頃には空が晴れてきて、一日たっぷり市内観光が出来ました。
松山に来たらまずは松山城です。
お城の山へつづく坂道は城下町のなごりでお土産屋さんが立ち並び、お昼はここで松山名物の鯛めしを頂きました。
関東では見たことの無い贅沢なご飯です。
鯛のお刺身がのっている上にタレ汁をかけるものです。お腹いっぱい!
そして、松山城へ登ります。かなり山の上にあるお城へはロープ―ウェイで登ります。
昔の人は歩いて登ったのですね。今は観光用に便利です。
そして、見晴らしの良い城内へはいるとこれがまた山の上らしくそびえたつような美しいお城でいくつもの門がありました。
昔は、敵が攻めて来ても入れないように幾つもの門で遮り、さまざまな戦略を考えて作られたのですね。
大変な工事だったと思います。相当な労力が必要だったでしょう。
そうしてまるで雲の上の空のお城の天守閣まで登りました。見晴らしの良い天守閣からは伊予の国が一望できます。
天守閣まで登り、第一日の旅は、この辺で終わりとして、温泉町道後の旅館へ向かいました。
松山の市街には坊ちゃん列車が走っていて、レトロなマッチ箱のようで可愛いです。
道後温泉の駅には、からくり時計がありマドンナ通りを抜けて道後温泉本館の向い側に宿を取りました。
日本で最も古い温泉と言われていて、夏目漱石も入ったと言います。
温泉の周りは漱石の坊ちゃんにまつわるお人形や子規にまつわる句碑やお土産など、文学の里ならではの雰囲気です。
夏らしく浴衣姿の女性も見かけます。
日本最古の温泉で旅の疲れを癒して、さあ!明日はいよいよイベントです。

子規・漱石生誕150周年記念「至芸の邂逅展」
~6月29~7月2日四国松山正岡子規記念会館にて~
上野貴子はささやかながら一点の俳句を菓子盆にして出展致しました。素敵な工芸品の一品です。
素晴らしい記念になるイベントに参加できたこと、本当に嬉しく思っています。
この場をお借り致しましてお誘い下さった出版社の方々御協力下さいました皆様方に、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

 

芭蕉の食の俳句「茄子」

芭蕉の食べ物俳句に、茄子の句を見つけました。

茄子は夏の季語ですね。

そろそろ美味しい季節かと思います。

江戸時代の芭蕉は、茄子でどんな句を詠んでいるのか見てみましょう。

 

秋涼し手毎にむけや瓜茄子

めづらしや山を出羽の初茄子

 

これは茄子を「なすび」と呼んでいますね。まづ初めの句ですが、出だしの上五から季節がずれています。「秋涼し」とは、勿論、秋の季語です。なのに最後の下五で「瓜茄子」で締めています。これは「うりなすび」となりますね。うりとなすとしても、どちらも夏の季語なのです。これでは季感が合いません。芭蕉は、夏の終わりから秋の初めに、すでに良く熟した瓜や茄子を手でそのまま向いて食べれるようになったという季節の移り変わりを詠みたかったのではないでしょうか。なすにはうりのような細長い品種があることも考えられますね。けれども江戸時代のことですから、瓜は今の胡瓜かもしれません。

次の句は前回の食の句のブログにも含まれていた句です。芭蕉が「奥の細道」で出羽に行った時の句です。ここでは「初茄子」なので初夏でしょう。季感ははっきりしますし、まとまった句ですね。出羽三山が浮かびますね。

ここで、もう一句見つけたのでご紹介します。

 

梅若菜鞠子の宿のとろろ汁

 

この句は「とろろ汁」を詠んでいます。これは、芭蕉が奥の細道のあとの猿蓑で読んでいる句ですから、東海道丸子の宿だと思われます。古来から有名な「とろろ汁」は、丸子の宿が名産地なので季語では秋ですが、どうやら梅が咲く若菜の頃でも食べられていたようですね。これも、最初の「秋涼し」の句のように季重なりなので季感がはっきりと解らない句です。それでも、春の季語から始まっているところから、春の句なのではないかと考えられますね。

このように食べ物は季節感が豊富なので、さまざまな解釈が考えられて面白いですね。

最後に少し面白い茄子の成句を揚げておきましょう。

 

瓜の蔓に茄子はならぬ

秋茄子は嫁に食わすな

なんて言われているのですね。案外、芭蕉も知っていた成句かも知れません。

 

 

 

 

ふるさとの旅・九十九里浜

生まれ故郷・九十九里浜

  炎帝の召され九十九里浜の朝            上野貴子(ページタイトル画にて)

人はいつでも心のどこかに、自分の生まれ育ったふるさとの思い出を大切にしまい込んで、変わりゆく日常の暮らしに追われ忙しなく生きているものです。そんな毎日の狭間で、ふと立ち止まってみると、そこには時を越えたふるさとの思い出が心の奥底からこみ上げてきて、まるで幼い少女の頃にでもタイムスリープしてしまったかの様な気持ちになります。

  ゆく春の落書きたどり記念館            上野貴子

私の故郷にはいとうさちおと言う郷土の偉人が居て記念館が有名ですが、この記念館の歌碑を思うと、まるで時が止まってしまったような歴史の重みに胸が切なくなります。

  太陽の昇る町へと花峠               上野貴子

そして、そんな故郷から都会の町へ夢を抱えて上京した学生時代を思い出すのです。

  海までの道を青田の波そよぐ            上野貴子

いつまでも変わることの無い永遠のふるさと、それはかけがえのない心のまほろばと言えるに違いありません。

(Mahoroba・No4,2010年掲載より)

「奥の細道」その後

「奥の細道」の旅を大垣に行き着いて、そこで終了していますが、大垣から江戸までは、かなりの距離です。
もう一度、今度は江戸へ向かって旅をしなければなりません。

この後、いったい芭蕉はどうしたのでしょうか?

一説によると、「奥の細道」の最後の大垣の章には、伊勢神宮の遷都を見にお伊勢参りに向かいとあります。

けれども、これまでの旅の疲れもあり、先ずは故郷の伊賀上野へ行き、そこで疲れを癒したと言われています。そして、大津の木曽義仲の眠る義仲寺へ行きます。そこから大津岩間山の山中の幻住庵を訪ねます。そして、この庵に四か月ほどのんびりとした時を過ごし「幻住庵記」を残しています。そこから、京都を巡り伊勢まで行きます。伊勢では西行が庵を結んだという二見ヶ浦に立ち寄っています。

これは、記録では大きな紀行文としての旅ではないようですが、この時期に嵯峨落柿舎に滞在中の日記として「嵯峨日記」を書き記しています。芭蕉四十八才四月十八日から五月四日までとされています。そして、やはり江戸へ戻るのですが、この時にはすでに芭蕉庵は人手に渡ってしまっています。

そこで、すぐ近くに新たな芭蕉庵を新築します。そして、約二年半をその新たな芭蕉庵で過ごしています。

その後、芭蕉は最後の旅に出ます。これは西国を巡る長い旅の予定でした。しかし、この旅の途中で芭蕉は息を引き取ります。大阪の御堂筋とされています。そして、その墓は、芭蕉の意志により滋賀県大津市にある木曽義仲の墓のある義仲寺に今でも埋葬されているといいます。

そして、その後の1695年元禄8年には「芭蕉翁行状記(ぎょうじょうき)」が刊行されています。

芭蕉の詠んだ「紫陽草」

もう六月です。この時期はやはり紫陽花が美しいですね。
紫陽花は日本が原産のようです。特に「額紫陽花」が日本古来からの紫陽花のもととなると言われています。
そこで、芭蕉は紫陽花を詠んでいるのかと思いました。
紫陽花の句は「紫陽草」として2句ありました。

紫陽草や藪を小庭の別座敷

この句は元禄七年芭蕉51才の時に詠まれた句です。この頃は人生五十年と言われていた江戸時代にはかなり芭蕉も体が弱っていたころでしょう。最後の旅の送別に催された歌仙の句会の席の句とされています。このあとの秋には病中吟として有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んでいます。

そして、もう1句。

紫陽草や帷子時の薄浅黄

この句は、いつ頃の句なのか不明のようです。年号不知の句とされています。

この二句は今の「紫陽花」と書くあじさいではなく「紫陽草」と書かれていますね。

「あぢさゐ」と平仮名では書かれていたようですが、今のような珠紫陽花ではなくて雪の下のような儚げな四葩だったのでしょうか。色は青から紫色に変化していたのだと解釈できます。

それにしてもこの2句、何故「紫陽草」と表記されているのでしょうか。

現代では、通常「紫陽花」と書きます。なのに、この2句は花ではなく草と書いています。これは芭蕉の書き間違いでしょうか。

そこで、少し調べてみました。

この紫陽花は、昔ながらのユキノシタ科の今の原種といわれている日本特有の額の花ではないかと思いました。万葉集のころからすでに紫陽花はあぢさゐとしては多く詠まれています。

ですから、江戸時代にはこの昔ながらの「額の花」をあぢさゐとして詠んだのではないでしょうか。

そうして、花が草とあるのは、額の花であれば、別名「額草」とも称されているのです。これは「額の花」の別名として三省堂大辞林に確かにあります。

そこから、芭蕉は額を紫陽として花を草としたのではないでしょうか。こう書けば、がくそう=あぢさゐとなります。そして、漢字をあてたのでしょう。

こうしてみると、足元の雨を弾くような儚く移ろい咲く姿が、「草」という字にすることで思い浮かびます。

 

 

芭蕉「奥の細道」行程地図


①芭蕉庵 芭蕉の旅「奥の細道」No1
②千住            No3
③日光            No4
④雲巖寺           No6
⑤白河            No7
⑥福島            No9
⑦仙台            No12
⑧石巻            No16
⑨平泉            No17
⑩立石寺           No19
⑪羽黒山           No20
⑫月山            No20
⑬酒田            No20
⑭象潟            No21
⑮鼠ヶ関           No22
⑯新潟            No22
⑰親不知           No22
⑱金沢            No23
⑲山中            No25
⑳種の浜           No29
㉑敦賀              No29
㉒大垣              No30

※地図上のナンバー表です。
芭蕉が奥の細道でたどった行程を追ってみました。Noは上野貴子の俳句の旅PH内のブログ記事のナンバーです。

 

芭蕉が詠んだ「五月雨」

芭蕉は「奥の細道」の中で、五月雨の句を何句か詠んでいます。

まずは、平泉の章

五月雨の降のこしてや光堂・・・芭蕉

この句は、中尊寺の金色堂を詠んだとされて有名ですね。

そして、もう一句は、最上川の章

五月雨を集めて早し最上川・・・芭蕉

この句は最上川の広大な川下りを詠んでいます。

どちらも「五月雨」ですから五月の頃の句ですね。

芭蕉は、奥の細道で江戸から日光を通り白川の関を越えて松島を巡り、そして中尊寺から山寺、そして更に、最上川を下り日本海の酒田へ出ます。

この二句は、その太平洋から日本海へと日本列島を横断する際に詠まれた二句ですね。

厳しい難所をいくつも歩き、そして、今でも有名な観光地である中尊寺や最上川で詠んでいます。

五月の長雨が降りつづくなかでの旅であったことが読み取れますね。