俳句575第五回切れ字「けり」の考察

「奥の細道」より切れ字のチェック一覧

1草の戸も住み替る代ぞひなの家

             季語   ひなの家

             切れ字  ぞ

2行春や鳥啼魚の目は泪

             季語   春

             切れ字  や

1●3あらとうと青葉若葉の日の光

             季語   青葉若葉

             切れ字  

2●4剃捨て黒髪山に衣更・・・・・曾良

             季語   衣更

             切れ字

5暫時は滝に籠るや夏の初

             季語   夏

             切れ字  や

3●6かさねとは八重撫子の名成べし・・・・・曾良

             季語   撫子

             切れ字  「べし」助動詞終止形

7夏山に足駄を拝む首途哉

             季語   夏山

             切れ字  哉

8木啄も庵はやぶらず夏木立

             季語   夏木立

             切れ字  ず

9野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす

             季語   ほととぎす

             切れ字  よ

10田一枚植て立去る柳かな

             季語   柳

             切れ字  かな

11卯の花をかざしに関の晴着かな・・・・・曾良

             季語   卯の花

             切れ字  かな

12風流の初やおくの田植うた 

             季語   田植

             切れ字  や

13世の人の見付ぬ花や軒の栗

             季語   栗の花

             切れ字  や

14早苗とる手もとや昔すのぶ摺

             季語   早苗

             切れ字  や

15笈も太刀も五月にかざれ帋(かみ)幟(のぼり)

             季語   五月

             切れ字  

4●16笠島はいづこさ月のぬかり道

             季語   さ月

             切れ字  

5●17桜より松は二木を三月越し

             季語   桜

             切れ字  「越す」動詞連用形。

6●18あやめ草足に結(むすば)ん草鞋の緒

            季語   あやめ草

            切れ字  

19松島や鶴に身をかれほとゝぎす・・・・・曾良

            季語   ほとゝぎす

            切れ字  や

20夏草や兵どもが夢の跡

            季語   夏草

            切れ字  や

21卯の花に兼房みゆる白毛かな・・・・・・曾良

            季語   卯の花

            切れ字  かな

22五月雨の降のこしてや光堂

            季語   五月雨

            切れ字  や

7●23蚤虱馬の尿する枕もと

            季語   蚤虱

            切れ字  

8●24涼しさを我宿にしてねまる也

            季語   涼し

            切れ字  「なり」助動詞終止形

25這出よかひやが下のひきの声

            季語   ひき

            切れ字  よ

9●26まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉の花

            季語   紅の花

            切れ字  

27蚕飼(こがい)する人は古代のすがた哉・・・・・・曾良

            季語   蚕養

            切れ字  哉

28閑さや岩にしみ入蝉の声

            季語   蝉の声

            切れ字  や

29五月雨をあつめて早し最上川

            季語   五月雨

            切れ字  し

30有難(ありがた)や雪をかほらす南谷

            季語   雪(夏だが残雪を詠んだ句)

            切れ字  や

31涼しさやほの三か月の羽黒山

            季語   涼し

            切れ字  や

10●32雲の峰幾つ崩て月の山

            季語   雲の峰

            切れ字  

33語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな

            季語   

            切れ字  かな

34湯殿山銭ふむ道の泪かな・・・・・・・・曾良

            季語   

            切れ字  かな

35あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

             季語   夕すゞみ

             切れ字  や

11●36暑き日を海にいれたり最上川

             季語   暑き日

             切れ字  

37象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花

             季語   ねぶの花

             切れ字  や

38汐越や鶴はぎぬれて海涼し

             季語   涼し

             切れ字  や

39象潟や料理何くふ神祭・・・・・・・・・曾良

             季語   祭

             切れ字  や

40蜑(あま)の家(や)や戸板を敷て夕涼・・・・・・・・低耳(みのの国の商人)

             季語   夕涼

             切れ字  や

41波こえぬ契ありてやみさごの巣・・・・・曾良

             季語   

             切れ字  や

42文月や六日も常の夜には似ず

             季語   文月

             切れ字  や

43荒海や佐渡によこたふ天河

             季語   天河

             切れ字  や

12●44一家に遊女もねたり萩と月

             季語   萩と月

             切れ字

45わせの香や分入右は有磯海

             季語   わせ

             切れ字  や

46塚も動け我泣声は秋の風

             季語   秋の風

             切れ字  け

47秋涼し手毎にむけや瓜茄子

             季語   秋涼し

             切れ字  や

13●48あか〱と日は難面(つれなく)もあきの風

             季語   あきの風

             切れ字  

49しほやしき名や小松吹萩すゝき

             季語   萩すゝき

             切れ字  や

14●50むざんやな甲(かぶと)の下のきり〲す

             季語   きりぎりす

             切れ字  

51石山の石より白し秋の風

             季語   秋の風

             切れ字  し

52山中や菊はたおらぬ湯の匂

             季語   菊

             切れ字  や

15●53行〱てたふれ伏とも萩の原・・・・・・曾良 

             季語   萩

             切れ字  

54今日よりや書付消さん笠の露

             季語   露

             切れ字  や

55終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山

             季語   秋風

             切れ字  や

56庭掃きて出ばや寺に散柳

             季語   散柳

             切れ字  や

57物書て扇引さく余波(なごり)哉

             季語   扇

             切れ字  哉

58月清し遊行(ゆぎょう)のもてる砂の上

             季語   月

             切れ字  し

59名月や北国(ほくこく)日和(びより)定なき

             季語   名月

             切れ字  や

60寂しさや須磨にかちたる浜の秋

             季語   浜の秋

             切れ字  や

61浪の間や小貝にまじる萩の塵

             季語   萩の塵

             切れ字  や

62蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

             季語   行秋

             切れ字  ぞ

「奥の細道」内の句の番号 ●は切れ字がないと思われる句の番号

「奥の細道」にある句の内の「切れ字」について

切れ字「や」の数が二十九句もある。・・・・・・上五に多く使われている。
切れ字「けり」はほとんど無いと思われる。
切れ字「かな」は八句。・・・・・・・・・・・・下五に使われている。
切れ字の無い句が十五句。
※切れ字が無いと思われる十三句+2句(也「なり」「越し」は切れ字ではないとする。)=十五句。

 

俳句575第五回「切れ字って何」「けり」について

今回は切れ字「けり」のある句を見てみましょう。驚いたことに芭蕉は「奥の細道」では切れ字「けり」を一句も使っていません。

これは、このように細かく切れ字に焦点を当てて見て、第一回からこれまでを通して、初めて知ったことです。

「けり」が使われていないこと比べて、「や」がとても多い事が解りました。

芭蕉は、何故これまで切れ字の代表と言われて来た「けり」をまったく使わなかったのでしょうか。

私が考える所では、「けり」は、詠嘆と過去を表す助動詞という意味合いがあります。そこで、この紀行文では、その行程の難しさや、その土地に芭蕉自らが出向いてその場で書いているという臨場感を大切にするために、切れ字「けり」を使わないという作句法を摂ったのではないでしょうか。

それでは、芭蕉は「奥の細道」以外では、「けり」を使う事は無かったのでしょうか。
生涯に千句余りの句を残したと言われる中から、「けり」を探してみましょう。
まずは有名な名句を見付けました。

①行春を近江の人とおしみけり

この句には、芭蕉が推敲を重ねた記録が残っています。

②行春をあふみの人とおしみける

③行春やあふみの人とおしみける

この句は3句とも同じ句であるとされていて、それぞれに残されている作品集が違うようです。②は「猿蓑」に残されていて、作品集としてはこの句が名句ということになります。 そうなると、少ない「けり」の句とは一言では言い難いですね。

多くは切れ字「けり」とは、詠嘆や過去の意味を表わすとされ、下五に置くことが多いと言います。ところが探してみると「や」のようにどこにでも使われています。

秋来にけり耳を訪ねて枕の風  

甲比(かび)丹(たん)もつくばはせけり君が春  

旅烏古巣は梅(むめ)になりにけり    

春の夜は櫻に明けてしまひけり.  

あまり多くはないものの、上五、中七、下五と、それぞれにつかって、切れ字としての「けり」は、「~~だ」「~~だった」というように過去の詠嘆を表すものですから、語調の柔らかさなどから見ても、これまで言われてきたように、下五に使うことが効果的なように考えられます。

しかし、芭蕉は「奥の細道」ではひとつも使っていないのは何故なのでしょうか。

俳句は短い為に、過去か現在かで大きく変わると考えていたのでしょうか。
作品としての編纂上で、切れ字「けり」の句は省かれたのかも知れません。前後のつながりが不自然な書き方になってしまうからです。

まして、現代では「けり」をつかうことで「・・・だった」「・・・だなァ」というニュアンスになり前後の時間の流れがつかみづらいです。

その他、「けり」は助動詞であるために活用があり変化します。ですから切れ字「けり」とは言いますが、助動詞としては「ける」「けれ」なども使われ、切れ字として解りづらいです。一句をまとめるにあたっての時間軸が上手く表現しづらいためにあまり多くは使わないのではないかと考えます。

助動詞「けり」の活用
ラ変型。(けら)/〇/けり/ける/けれ/〇

ここで、単純な意見ではありますが、「けり」は「蹴る」と紛らわしいという事は、「奥の細道」の文中の句には使われていないひとつの理由にはならないでしょうか。

こうして考えてみると、確かに十七文字に凝縮された俳句の中に「けり」を効果的に使う事は難しいのかも知れません。

これは、現代においても言うまでもない作句上の慣習的な悩みですが、定型の中に慣習的に切れ字を使うというひとつの実作のコツは、どうも芭蕉の時代からすでにうやむやであったようです。

これまで切れ字について芭蕉の「奥の細道」をたたき台にして、切れ字の「や」「かな」「けり」の代表的な三つを採り上げて考察してきました。

これは、現代では切れ字と言われると、この三つを主にさしているからです。そして、この切れ字は、その有る無しをあまりこだわらない傾向がみられます。

けれども作句の現場で実作指導としてのアドバイスや添削の際には、未だに切れ字が有る無しを解いたり、また、その語調を整えるレトリック的な効果であっても、おうおうにして付け加えたりしています。

例えば、切れ字は一句の中に一つとすると良いと言われています。そして、三段切れは良く無いと言われています。
例句 目に青葉山郭公(ホトトギス)初鰹  山口素堂

けれども、この名句などは、上五、中七、下五と、すべての言葉が区切れていて、まるで三句一章です。それでも切れ字はありません。

例句 冬菊のまとふはおのがひかりのみ  水原秋櫻子

この句も有名な句ですが切れ字はありません。それでも句意は解りますし上手く言葉がまとまっています。これまでの経緯を鑑みると、私はいっそこの切れ字は、すでに現代ではあまり良く無いのではないかという結論に達しました。

大きな理由は、現代では使われない言葉であるために、その用法は感覚的なものでレトリック的であるということ。

そして、意味や解釈が大きく変わる場合まであるということ(切れ字の効果と弊害参照)です。助詞であれ助動詞であれその効果はもはや、特に切れ字である必要性が無いということです。

575の三つのフレーズに分かれていて、その韻文の美しさが俳句の良さです。こうして時代にあった言葉を俳句に詠み込んでゆけたらその方がずっと俳句をこれからも詠み続けるためには重要なのではないでしょうか。

切れ字は575に上手くまとめるための作句上の謂わば秘伝のようなもので、慣習的に現代ではすでに「や」「かな」「けり」の3つを呼んでいます。

古く文語で文章が書かれていた時代の名残りのように感じます。作者の表現者としての想いを大切にするためには時代と共に必要性は薄れて行くべきではないのでしょうか。

俳句575では、これからも俳句は定型詩であり世界でもっとも短い詩であると言われていることを、作句の指針として提唱してゆこうと考えています。

これまでの固定観念にとらわれない自由な俳句をこれからも模索して行きましょう。

※最後に、これまでの切れ字で有る無しの疑問を解決するための資料といたしました「切れ字十八」を文語文法に沿ってまとめました。
(かな・もがな・し・じ・や・らん・か・けり・よ・ぞ・つ・せ・ず・れ・ぬ・へ・け・に)
このうち、「せ」「れ」「へ」「け」は動詞の命令形語尾。
「し」は形容詞語尾。
「に」は副詞「いかに」のこと。
他は助動詞と終助詞。

 

芭蕉の「奥の細道」ピックアップ!

芭蕉の「奥の細道」の見所をご紹介!

芭蕉の代表作「奥の細道」は全7章45編あります。
この紀行文のなかから面白い人気の抄をピックアップしてみました。
おおまかなあらすじをここで紹介します。

「奥の細道」
第一章
旅立ち 草加

ここでは芭蕉が奥の細道の旅に出て初めて宿に泊まる話が書かれています。
この旅は500年忌に当たる西行の歌枕の地を自分の目で見たいという目的があることが書かれていて、長旅に対する不安などが感じられます。
そして、重い荷物をこの先どうやって背負って行こうかという悩みが旅の始めの楽しさを物語っています。

第二章 白河の関

厳しい関所で有名な白河の関で、芭蕉は門人曾良と卯の花をかざして越えたようです。旅 の途中のいでたちで正装は出来ないがせめてもの気持ちだと書き記しています。風流な一説ですね。

第三章 しのぶの里

この地にまつわる石の話が書かれています。その石は崖の上にあったが、通りかかる人が有名な模様をまねて石でこするので困ってしまい石を崖の下へ突き落してしまったので上と下が逆になっているというのです。この地が昔風雅な模様のしのぶもぢずり絹の産地であったことから芭蕉はこの話に感動しています。

第四章  松島

この旅の大きな目的の地である松島の抄では、絶景の美しさを美人の粧う顔の様だと言っています。
そして、面白いことに感動のあまり俳句が詠めなかったと書かれています。

第五章  立石寺

尾花沢から引き返して、人の勧めで立ち寄ったようです。そして以外にも有名な句を残し、その厳しい修験僧たちの集まる寺の様子が荘厳なまでに清らかだと書かれています。「閑さや岩にしみ入蟬の声」

第六章  一振

金沢への途中に親知らづ子知らずの難所を経て辿り着いた宿で芭蕉は遊女と出くわします。
伊勢参宮の途中らしく、一間隔ててその晩を過ごし朝になるとなにやらついて来たいと遊 女は頼むのですが、芭蕉は行く先の定まらない旅の物だとその場を立ち去るのでした。面白い旅のエピソードですね。

第七章  大垣

とうとう「奥の細道」最後の地である大垣です。この地の門人を訪ねて芭蕉は予定通りにこの長旅を終えるのです。各地から旅の終わりを祝いに門人たちが集まり、芭蕉が長くて 厳しい今度の旅を終えたことを、悦び且つ労わりました。そして、また数日のうちにすぐに芭蕉は伊勢へと旅立ってゆきます。

江戸時代に全国行脚の旅で俳句を広めた芭蕉の情熱から現代にまで通じる人生哲学を学びましょう!

「奥の細道」その後

「奥の細道」の旅を大垣に行き着いて、そこで終了していますが、大垣から江戸までは、かなりの距離です。
もう一度、今度は江戸へ向かって旅をしなければなりません。

この後、いったい芭蕉はどうしたのでしょうか?

一説によると、「奥の細道」の最後の大垣の章には、伊勢神宮の遷都を見にお伊勢参りに向かいとあります。

けれども、これまでの旅の疲れもあり、先ずは故郷の伊賀上野へ行き、そこで疲れを癒したと言われています。そして、大津の木曽義仲の眠る義仲寺へ行きます。そこから大津岩間山の山中の幻住庵を訪ねます。そして、この庵に四か月ほどのんびりとした時を過ごし「幻住庵記」を残しています。そこから、京都を巡り伊勢まで行きます。伊勢では西行が庵を結んだという二見ヶ浦に立ち寄っています。

これは、記録では大きな紀行文としての旅ではないようですが、この時期に嵯峨落柿舎に滞在中の日記として「嵯峨日記」を書き記しています。芭蕉四十八才四月十八日から五月四日までとされています。そして、やはり江戸へ戻るのですが、この時にはすでに芭蕉庵は人手に渡ってしまっています。

そこで、すぐ近くに新たな芭蕉庵を新築します。そして、約二年半をその新たな芭蕉庵で過ごしています。

その後、芭蕉は最後の旅に出ます。これは西国を巡る長い旅の予定でした。しかし、この旅の途中で芭蕉は息を引き取ります。大阪の御堂筋とされています。そして、その墓は、芭蕉の意志により滋賀県大津市にある木曽義仲の墓のある義仲寺に今でも埋葬されているといいます。

そして、その後の1695年元禄8年には「芭蕉翁行状記(ぎょうじょうき)」が刊行されています。

芭蕉「奥の細道」行程地図


①芭蕉庵 芭蕉の旅「奥の細道」No1
②千住            No3
③日光            No4
④雲巖寺           No6
⑤白河            No7
⑥福島            No9
⑦仙台            No12
⑧石巻            No16
⑨平泉            No17
⑩立石寺           No19
⑪羽黒山           No20
⑫月山            No20
⑬酒田            No20
⑭象潟            No21
⑮鼠ヶ関           No22
⑯新潟            No22
⑰親不知           No22
⑱金沢            No23
⑲山中            No25
⑳種の浜           No29
㉑敦賀              No29
㉒大垣              No30

※地図上のナンバー表です。
芭蕉が奥の細道でたどった行程を追ってみました。Noは上野貴子の俳句の旅PH内のブログ記事のナンバーです。

 

芭蕉が詠んだ「五月雨」

芭蕉は「奥の細道」の中で、五月雨の句を何句か詠んでいます。

まずは、平泉の章

五月雨の降のこしてや光堂・・・芭蕉

この句は、中尊寺の金色堂を詠んだとされて有名ですね。

そして、もう一句は、最上川の章

五月雨を集めて早し最上川・・・芭蕉

この句は最上川の広大な川下りを詠んでいます。

どちらも「五月雨」ですから五月の頃の句ですね。

芭蕉は、奥の細道で江戸から日光を通り白川の関を越えて松島を巡り、そして中尊寺から山寺、そして更に、最上川を下り日本海の酒田へ出ます。

この二句は、その太平洋から日本海へと日本列島を横断する際に詠まれた二句ですね。

厳しい難所をいくつも歩き、そして、今でも有名な観光地である中尊寺や最上川で詠んでいます。

五月の長雨が降りつづくなかでの旅であったことが読み取れますね。

 

芭蕉の旅「奥の細道」はじめの名文・序章

松尾芭蕉の「奥の細道」は、その初めの名文が、何よりも有名だと言っても良いでしょう。

旅に対する芭蕉の考えや、人生観、そして芭蕉の哲学というものが、象徴的に書き表されていると思います。

この有名な「奥の細道」のはじめの名文を私なりに解釈してみましたので、公開いたしますね。

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

解釈:月日は永遠にとどまることを知らない旅人であり、去ってはまためぐり来る年もまた旅人である。

舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅人にして、旅を栖とす。

解釈:船の上にその身の生涯を浮かべ、馬のくつわを取って引き年老いて行く者などは、毎日が旅人であり、旅に住んでいるようなものだ。

古人も多く旅に死せるあり。

解釈:昔の人も旅に死んでいることが多くあることだ。

予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず、

解釈:私自身もいつのころからか、ちぎれ雲を漂わせる風に誘われて、さすらう思いをとどめることが出来ず、

海浜にさすらへ、

解釈:海や浜べの旅を経て、(「笈の小文」の旅のことである。)

去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、

解釈:去年の秋に、深川の芭蕉庵に蜘の古巣をはっていたものを払って、だいたい年の暮になり、そして、立春となり空に霞がかかる頃には、白河の関所を越えようと、

そゞろ神の物につきて心をくるはせ、

解釈:何となく人の心を誘惑する神にでも取りつかれた様に心が乱れて、

道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、

解釈:旅人を守るという道祖神のお導きに取る物も取りあえず、

もゝ引きの破れをつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

解釈:もも引きの破れているものをつづり合わせて、笠の緒を付け変えて、膝がしらの下の三里に灸をすえてから、松島の月を何よりもまづは見たいと思い心から離れず、住む家は人に譲って、杉風の別荘に移ることになって、

(芭蕉はここで一句詠んでいます。この後に新しく住む庵の住人に対する挨拶句だと言われています。)

面八句を庵の柱に懸置。

解釈:初めの懐紙の表に八句書き記し、庵の柱にかけて、挨拶として置いた。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No30・大垣

 

大垣

露通もこの港にまで、出迎えに来て、美濃の国まで御伴してゆくことになりました。

小さな馬に乗り旅の助けとしながら大垣のいなかへと入れば、曾良も伊勢よりやって来ていて、ここで合うことが出来ました。

越人(えつじん)も馬を走らせて来ています。如行(じょこう)の家へたどり着いて、皆が集まることになります。

前川子(ぜんぜんし)、荊口父子(けいこうふし)、その他に親しき人々は、日夜心配して、まるで生きかえる者に合うかのようであったといいます。

長くて厳しい今度の旅を終えたことを、悦び且つ労わりました。

旅の辛さもまだ冷めやらぬうちに、9月6日にもなれば、早くも伊勢の遷宮を拝みたいと思い、芭蕉は、又、舟に乗り旅立つのでした。

そして、ここに最後の一句を詠んで「奥の細道」を書き終えています。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No29・敦賀から種の浜へ

 

敦賀から種の浜へ

しだいに白根が嶽が隠れて、比那が嵩が表れて来ます。

浅水川(あそうずがわ)に架かっている橋を渡り、玉江の芦にはもう穂が出ている頃となりました。

鶯の関を過ぎて、湯尾の峠を越えれば、燧ケ城、かえる山には初雁の鳴く声を聞いて、十四日の夕暮れに、敦賀の港に宿をとります。

その夜は月が、殊のほか明るく照らし「あすの夜も、こうであってほしいものだ」と言うと、「越路の習いで、明日の天気は読めないものです。」と言い、宿の主に酒を進められて、けいの明神の夜祭にお参りに出かけます。

この神社は仲哀天皇の御廟(ごびょう)だと言います。社頭神はさびて、松の木の間から月の光がさしていて、真っ白な霜がかかっているようです。

その昔、遊行二世の上人が、大願発起した事があり、みずから草を刈り、土石を荷って、ぬかるみやどろをかわして、参詣の人や往来の者達を通りやすくしたという事です。

この古い例は、今でも絶えず語られています。

神前に細かい真砂を運ばせ「これを遊行の砂持と申します。」と亭主が話してくれました。

そこで、芭蕉は一句詠み、翌十五日は、亭主の話も残念ながら雨が降り

そこでまた、芭蕉は一句詠でんでいます。

そして次の十六日は、空は晴れて小貝を拾おうとして、種の浜に舟を走らせます。浜へは海の上を七里ほどかかります。

天屋五郎右衛門とやら言うもの、破籠、小竹筒など、細かな物まで準備して、使いの物など皆で舟に乗り、追い風にあおられながらちょうど良く浜に着きました。

浜にはわずかな海女の小家があり、侘しいたたずまいの法花寺があります。

ここでお茶を飲んで、酒を温めて、夕暮れの寂しさを感じるまでを過ごし、ここで芭蕉は、二句詠んでいます。

そして、その日のあらましを等裁の筆にしたためさせ寺に残しています。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No28・等栽

等裁を尋ねて

福井から三里ほどのところで夕食をとろうとするが、夕暮れの黄昏せまる路は心細く不安です。

ここには等裁とう俳諧の古老がいるはずで、何時の年だったか江戸に尋ねて来たことがあります。あれからもうはるか十年余りはなりましょうか。どれほど年老いているでありましょう。まさか死んではいないでしょうと、人に尋ねると、まだ存命であるといい、その住むところを教えてくれました。

それではと市中を離れたみすぼらしいそなつな小家に、夕顔が咲き糸瓜が生えて、鶏頭や帚木で入り口の細い扉が隠れているほどです。

どうやらこの家であるだろうと、門を叩けば、侘し気な女が出て来て「どこから来たお坊さんですか、主は今近所へ出かけていて留守ですが何かご用ですか」と言います。どうやら彼の妻のようです。昔が偲ばれる美しい人です。やがて等裁が帰り再会すると、その家に、二晩泊まることになります。

やがて名月が美しいと言われる敦賀へ旅立つのですが、等裁も見送ろうとしましたが、裾がからまり、路の出鼻をくじかれてしまったとおかしくからかいながら旅立つのでした。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No27・天竜寺、永平寺

天竜寺、永平寺

丸岡の天竜寺に長老がいて、その年おいた和尚に何か古き謂れがあるかと訪ねました。

また、金沢の北枝という蕉門のもので後に十哲の一人と言われる者が、ここまで見送りに来ていました。

途中のところどころの風景を通り過ぎてくるだけでなく心に刻みつけて、

折に触れて風雅の句を作ろうとする意志がるものと聞きました。

今、ここで別れるに望んで、芭蕉は一句詠んでいます。

そして、芭蕉は五十丁山に入り、永平寺を礼拝します。

道元禅師の開基のお寺であります。帝都から千里の天子直轄の地で、このような山陰にその姿を残しているのも、何と貴きことでありましょう。