芭蕉の「奥の細道」ピックアップ!

芭蕉の「奥の細道」の見所をご紹介!

芭蕉の代表作「奥の細道」は全7章45編あります。
この紀行文のなかから面白い人気の抄をピックアップしてみました。
おおまかなあらすじをここで紹介します。

「奥の細道」
第一章
旅立ち 草加

ここでは芭蕉が奥の細道の旅に出て初めて宿に泊まる話が書かれています。
この旅は500年忌に当たる西行の歌枕の地を自分の目で見たいという目的があることが書かれていて、長旅に対する不安などが感じられます。
そして、重い荷物をこの先どうやって背負って行こうかという悩みが旅の始めの楽しさを物語っています。

第二章 白河の関

厳しい関所で有名な白河の関で、芭蕉は門人曾良と卯の花をかざして越えたようです。旅 の途中のいでたちで正装は出来ないがせめてもの気持ちだと書き記しています。風流な一説ですね。

第三章 しのぶの里

この地にまつわる石の話が書かれています。その石は崖の上にあったが、通りかかる人が有名な模様をまねて石でこするので困ってしまい石を崖の下へ突き落してしまったので上と下が逆になっているというのです。この地が昔風雅な模様のしのぶもぢずり絹の産地であったことから芭蕉はこの話に感動しています。

第四章  松島

この旅の大きな目的の地である松島の抄では、絶景の美しさを美人の粧う顔の様だと言っています。
そして、面白いことに感動のあまり俳句が詠めなかったと書かれています。

第五章  立石寺

尾花沢から引き返して、人の勧めで立ち寄ったようです。そして以外にも有名な句を残し、その厳しい修験僧たちの集まる寺の様子が荘厳なまでに清らかだと書かれています。「閑さや岩にしみ入蟬の声」

第六章  一振

金沢への途中に親知らづ子知らずの難所を経て辿り着いた宿で芭蕉は遊女と出くわします。
伊勢参宮の途中らしく、一間隔ててその晩を過ごし朝になるとなにやらついて来たいと遊 女は頼むのですが、芭蕉は行く先の定まらない旅の物だとその場を立ち去るのでした。面白い旅のエピソードですね。

第七章  大垣

とうとう「奥の細道」最後の地である大垣です。この地の門人を訪ねて芭蕉は予定通りにこの長旅を終えるのです。各地から旅の終わりを祝いに門人たちが集まり、芭蕉が長くて 厳しい今度の旅を終えたことを、悦び且つ労わりました。そして、また数日のうちにすぐに芭蕉は伊勢へと旅立ってゆきます。

江戸時代に全国行脚の旅で俳句を広めた芭蕉の情熱から現代にまで通じる人生哲学を学びましょう!

「奥の細道」その後

「奥の細道」の旅を大垣に行き着いて、そこで終了していますが、大垣から江戸までは、かなりの距離です。
もう一度、今度は江戸へ向かって旅をしなければなりません。

この後、いったい芭蕉はどうしたのでしょうか?

一説によると、「奥の細道」の最後の大垣の章には、伊勢神宮の遷都を見にお伊勢参りに向かいとあります。

けれども、これまでの旅の疲れもあり、先ずは故郷の伊賀上野へ行き、そこで疲れを癒したと言われています。そして、大津の木曽義仲の眠る義仲寺へ行きます。そこから大津岩間山の山中の幻住庵を訪ねます。そして、この庵に四か月ほどのんびりとした時を過ごし「幻住庵記」を残しています。そこから、京都を巡り伊勢まで行きます。伊勢では西行が庵を結んだという二見ヶ浦に立ち寄っています。

これは、記録では大きな紀行文としての旅ではないようですが、この時期に嵯峨落柿舎に滞在中の日記として「嵯峨日記」を書き記しています。芭蕉四十八才四月十八日から五月四日までとされています。そして、やはり江戸へ戻るのですが、この時にはすでに芭蕉庵は人手に渡ってしまっています。

そこで、すぐ近くに新たな芭蕉庵を新築します。そして、約二年半をその新たな芭蕉庵で過ごしています。

その後、芭蕉は最後の旅に出ます。これは西国を巡る長い旅の予定でした。しかし、この旅の途中で芭蕉は息を引き取ります。大阪の御堂筋とされています。そして、その墓は、芭蕉の意志により滋賀県大津市にある木曽義仲の墓のある義仲寺に今でも埋葬されているといいます。

そして、その後の1695年元禄8年には「芭蕉翁行状記(ぎょうじょうき)」が刊行されています。

芭蕉「奥の細道」行程地図


①芭蕉庵 芭蕉の旅「奥の細道」No1
②千住            No3
③日光            No4
④雲巖寺           No6
⑤白河            No7
⑥福島            No9
⑦仙台            No12
⑧石巻            No16
⑨平泉            No17
⑩立石寺           No19
⑪羽黒山           No20
⑫月山            No20
⑬酒田            No20
⑭象潟            No21
⑮鼠ヶ関           No22
⑯新潟            No22
⑰親不知           No22
⑱金沢            No23
⑲山中            No25
⑳種の浜           No29
㉑敦賀              No29
㉒大垣              No30

※地図上のナンバー表です。
芭蕉が奥の細道でたどった行程を追ってみました。Noは上野貴子の俳句の旅PH内のブログ記事のナンバーです。

 

芭蕉が詠んだ「五月雨」

芭蕉は「奥の細道」の中で、五月雨の句を何句か詠んでいます。

まずは、平泉の章

五月雨の降のこしてや光堂・・・芭蕉

この句は、中尊寺の金色堂を詠んだとされて有名ですね。

そして、もう一句は、最上川の章

五月雨を集めて早し最上川・・・芭蕉

この句は最上川の広大な川下りを詠んでいます。

どちらも「五月雨」ですから五月の頃の句ですね。

芭蕉は、奥の細道で江戸から日光を通り白川の関を越えて松島を巡り、そして中尊寺から山寺、そして更に、最上川を下り日本海の酒田へ出ます。

この二句は、その太平洋から日本海へと日本列島を横断する際に詠まれた二句ですね。

厳しい難所をいくつも歩き、そして、今でも有名な観光地である中尊寺や最上川で詠んでいます。

五月の長雨が降りつづくなかでの旅であったことが読み取れますね。

 

芭蕉の旅「奥の細道」はじめの名文・序章

松尾芭蕉の「奥の細道」は、その初めの名文が、何よりも有名だと言っても良いでしょう。

旅に対する芭蕉の考えや、人生観、そして芭蕉の哲学というものが、象徴的に書き表されていると思います。

この有名な「奥の細道」のはじめの名文を私なりに解釈してみましたので、公開いたしますね。

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

解釈:月日は永遠にとどまることを知らない旅人であり、去ってはまためぐり来る年もまた旅人である。

舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅人にして、旅を栖とす。

解釈:船の上にその身の生涯を浮かべ、馬のくつわを取って引き年老いて行く者などは、毎日が旅人であり、旅に住んでいるようなものだ。

古人も多く旅に死せるあり。

解釈:昔の人も旅に死んでいることが多くあることだ。

予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思ひやまず、

解釈:私自身もいつのころからか、ちぎれ雲を漂わせる風に誘われて、さすらう思いをとどめることが出来ず、

海浜にさすらへ、

解釈:海や浜べの旅を経て、(「笈の小文」の旅のことである。)

去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、

解釈:去年の秋に、深川の芭蕉庵に蜘の古巣をはっていたものを払って、だいたい年の暮になり、そして、立春となり空に霞がかかる頃には、白河の関所を越えようと、

そゞろ神の物につきて心をくるはせ、

解釈:何となく人の心を誘惑する神にでも取りつかれた様に心が乱れて、

道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、

解釈:旅人を守るという道祖神のお導きに取る物も取りあえず、

もゝ引きの破れをつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

解釈:もも引きの破れているものをつづり合わせて、笠の緒を付け変えて、膝がしらの下の三里に灸をすえてから、松島の月を何よりもまづは見たいと思い心から離れず、住む家は人に譲って、杉風の別荘に移ることになって、

(芭蕉はここで一句詠んでいます。この後に新しく住む庵の住人に対する挨拶句だと言われています。)

面八句を庵の柱に懸置。

解釈:初めの懐紙の表に八句書き記し、庵の柱にかけて、挨拶として置いた。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No30・大垣

 

大垣

露通もこの港にまで、出迎えに来て、美濃の国まで御伴してゆくことになりました。

小さな馬に乗り旅の助けとしながら大垣のいなかへと入れば、曾良も伊勢よりやって来ていて、ここで合うことが出来ました。

越人(えつじん)も馬を走らせて来ています。如行(じょこう)の家へたどり着いて、皆が集まることになります。

前川子(ぜんぜんし)、荊口父子(けいこうふし)、その他に親しき人々は、日夜心配して、まるで生きかえる者に合うかのようであったといいます。

長くて厳しい今度の旅を終えたことを、悦び且つ労わりました。

旅の辛さもまだ冷めやらぬうちに、9月6日にもなれば、早くも伊勢の遷宮を拝みたいと思い、芭蕉は、又、舟に乗り旅立つのでした。

そして、ここに最後の一句を詠んで「奥の細道」を書き終えています。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No29・敦賀から種の浜へ

 

敦賀から種の浜へ

しだいに白根が嶽が隠れて、比那が嵩が表れて来ます。

浅水川(あそうずがわ)に架かっている橋を渡り、玉江の芦にはもう穂が出ている頃となりました。

鶯の関を過ぎて、湯尾の峠を越えれば、燧ケ城、かえる山には初雁の鳴く声を聞いて、十四日の夕暮れに、敦賀の港に宿をとります。

その夜は月が、殊のほか明るく照らし「あすの夜も、こうであってほしいものだ」と言うと、「越路の習いで、明日の天気は読めないものです。」と言い、宿の主に酒を進められて、けいの明神の夜祭にお参りに出かけます。

この神社は仲哀天皇の御廟(ごびょう)だと言います。社頭神はさびて、松の木の間から月の光がさしていて、真っ白な霜がかかっているようです。

その昔、遊行二世の上人が、大願発起した事があり、みずから草を刈り、土石を荷って、ぬかるみやどろをかわして、参詣の人や往来の者達を通りやすくしたという事です。

この古い例は、今でも絶えず語られています。

神前に細かい真砂を運ばせ「これを遊行の砂持と申します。」と亭主が話してくれました。

そこで、芭蕉は一句詠み、翌十五日は、亭主の話も残念ながら雨が降り

そこでまた、芭蕉は一句詠でんでいます。

そして次の十六日は、空は晴れて小貝を拾おうとして、種の浜に舟を走らせます。浜へは海の上を七里ほどかかります。

天屋五郎右衛門とやら言うもの、破籠、小竹筒など、細かな物まで準備して、使いの物など皆で舟に乗り、追い風にあおられながらちょうど良く浜に着きました。

浜にはわずかな海女の小家があり、侘しいたたずまいの法花寺があります。

ここでお茶を飲んで、酒を温めて、夕暮れの寂しさを感じるまでを過ごし、ここで芭蕉は、二句詠んでいます。

そして、その日のあらましを等裁の筆にしたためさせ寺に残しています。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No28・等栽

等裁を尋ねて

福井から三里ほどのところで夕食をとろうとするが、夕暮れの黄昏せまる路は心細く不安です。

ここには等裁とう俳諧の古老がいるはずで、何時の年だったか江戸に尋ねて来たことがあります。あれからもうはるか十年余りはなりましょうか。どれほど年老いているでありましょう。まさか死んではいないでしょうと、人に尋ねると、まだ存命であるといい、その住むところを教えてくれました。

それではと市中を離れたみすぼらしいそなつな小家に、夕顔が咲き糸瓜が生えて、鶏頭や帚木で入り口の細い扉が隠れているほどです。

どうやらこの家であるだろうと、門を叩けば、侘し気な女が出て来て「どこから来たお坊さんですか、主は今近所へ出かけていて留守ですが何かご用ですか」と言います。どうやら彼の妻のようです。昔が偲ばれる美しい人です。やがて等裁が帰り再会すると、その家に、二晩泊まることになります。

やがて名月が美しいと言われる敦賀へ旅立つのですが、等裁も見送ろうとしましたが、裾がからまり、路の出鼻をくじかれてしまったとおかしくからかいながら旅立つのでした。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No27・天竜寺、永平寺

天竜寺、永平寺

丸岡の天竜寺に長老がいて、その年おいた和尚に何か古き謂れがあるかと訪ねました。

また、金沢の北枝という蕉門のもので後に十哲の一人と言われる者が、ここまで見送りに来ていました。

途中のところどころの風景を通り過ぎてくるだけでなく心に刻みつけて、

折に触れて風雅の句を作ろうとする意志がるものと聞きました。

今、ここで別れるに望んで、芭蕉は一句詠んでいます。

そして、芭蕉は五十丁山に入り、永平寺を礼拝します。

道元禅師の開基のお寺であります。帝都から千里の天子直轄の地で、このような山陰にその姿を残しているのも、何と貴きことでありましょう。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No26・全昌寺、汐越の松

全昌寺、汐越の松

大聖寺の場外にある全昌寺という寺に泊まります。

ここは加賀の地であり、曾良が前夜に泊まっていました。そこで、芭蕉は一句詠んでいます。

一夜を隔てて、まるで千里の隔たりがあるかのようだとあります。

芭蕉も秋風を聞きながら、この禅寺の宿舎に寝れば、朝の空が明けはじめる頃には読経の声が聞こえ、その後に鐘板が鳴ると食堂に入ります。今日は越前の国へと、心がはやされる思いで宿舎を下ろうとすると、若い僧たちが、紙と硯を抱えて階段の下まで追いかけて来ました。

ちょうどこの季節の折、庭に柳が散る姿を見て、芭蕉は一句詠み、兎に角、墨をさまして草鞋を履きながら書き残したとあります。

そして、越前の境である吉崎の入り江の舟に棹をさしながら進み、浜坂の岬にあるという汐越の松を尋ねます。

ここには西行の歌があり、この一首は、数多くのどんな景色にもまさると言います。

もしも、この首に何か一言でも物言うものがいたとしても、無用のことでありましょうと書かれています。