芭蕉の旅「奥の細道」No15・松島

松島

そもそもいまさら言うことではないのですが、松島は東海の日の出る所としては、一番素晴らしい景色と言われるところです。

たぶん中国の洞庭、西湖などにも恥ずかしくない美しさです。

東南より海に入れば、入江の中に三里、中国の浙江(せつこう)の満潮時の素晴らしい奇観のようです。

島という島が残らず集まり、そびえたたせるものは天を指さし、伏す物は波にはらばう。あるいは、二重にかさなり、三重に畳んで、左に別れて右につらなる。背負う者もあり、抱きかかえる者もあり、子どもや孫を可愛がるかのようです。

松の緑は細やかに、枝や葉は汐風に吹かれてしなり折れ曲がり枝を自らとどめているかのようです。

その景色は、奥深く物静かな美しさで、まるで美人の顔を粧っているよう。

神々のその昔に、大山づみの神のなせる技でありましょうか。万物を創造した天のしわざでしょうか。

いったいどれほどの人が筆をふるって詞を詠み尽くしたことでしょう。

雄島が磯は、実は松島海岸から渡月橋がかかっている島です。雲居禅師の別室の跡があり、座禅石などがあります。

ひょっとすると、松の木蔭に世をすて出家した人も稀に見ることがあり、松などの落葉や松笠などを打ち落として燃やして煙がたなびく草庵に閑に住んでいるようです。

何と言う人物かは知られていないのですが、先ずは懐かしく思い立ち寄ってみると、月が海にうつり、昼の眺めも又あらたにするよう。入江にもどり宿を探せば、窓を開き二階作りになっていて、まるで風雲の中にあるような旅の宿をとり、寝ていると不思議なほどに素晴らしい気分になってしまったようです。

ここでは曽良が一句詠んでいます。

芭蕉は、一言も言葉が出ずに眠ろうとしましたが、寝付かれなかったとあります。

旧庵を別れて出る時に、素堂、松島の詩があります。原案適(はらあんてき)という人、松が浦島の和歌を贈られています。

袋を開けて、今宵の友としましょう。また、その中には杉風、濁子などの発句もありました。

11日、瑞岩寺に参詣。この寺は三十二世の昔、真壁の平四郎という人物が出家して、唐へ出向き、帰朝の後に開山したとあります。

その後に、雲居禅師の徳の教えにより、七堂の屋根を改めて、金の壁に荘厳の光を輝かせ、仏の浄土を成し遂げたのちに、大寺院となったということです。

あの見仏上人の寺は、いったいどこへ行ったのかと恋しく思うほどです。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No14・末の松山から塩竈へ

末の松山から塩竈へ

それから玉川、沖の石をたずねて行きます。

末の松山とは歌枕で、末松山というお寺が建てられています。

松の間はみな墓地となり、夫婦円満で仲睦まじく契りを交わした末にも、終には、このように墓に入ることになるものだと思うと、

悲しさもつのるばかりで感慨にひたっているところに、塩がまの浦に日暮れの鐘の音をちょうど聞くものです。

五月雨の空がほんの少し晴れて来て、夕月夜がかすかに見え、まがきが島も間近に見えます。漁師が小舟を連れだって漕ぎ帰り、魚を分け合う声がするのを聞くと「つなでかなしも」と古人が詠んだ気持ちがわかり、とても哀れであることです。

※「みちのくはいづくはあれどしほがまの浦こぐ舟のつなでかなしも」東歌(新古今和歌集)

その夜、盲目の法師が琵琶をならして、仙台浄瑠璃というものを語りました。平家琵琶でもなく、幸若舞でもなく、田舎めいた調子で声をはり上げて語るので、枕元の近くでうるさいのだけれど、さすがに片田舎の地に残されている風土の芸能を忘れずに伝えていることに心を打たれました。と書いています。

そして、次の朝早くに、塩がま明神に参詣しています。伊達政宗が修造されて、その宮柱は太くクヌギのたるきがきらびやかで、石の階段はとても高く続き、朝の日が明ける頃の神殿の垣を輝かせています。

このような道の果ての片田舎であっても、神様のご利益が、あらたかであられることこそ我が国の風俗であり、大変に貴いことと思います。

神前には、古い灯篭があります。そして、金属の扉の面に「文治三年和泉三郎寄進」とあります。

五百年来の俤が、今にも目の前に浮かんで、なんとなく珍しいものです。

かれは、勇、義、忠、孝を兼ね備えた武士であります。誉高い美名は、今にまで言い伝えられて多くの人に慕われつづけています。

誠に「人は、よく道理をわきまえた行いをし、節義を守るべきである。名声もまたこれに自然についてくる」と言います。

日はすでに午後近くになってしまい、舟で松島にわたります。その間、約二里余りで、芭蕉一行は雄島(をじま)の磯に着いたのです。

 

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No13・壺の碑(いしぶみ)

壺の碑(いしぶみ)

加右衛門の画いてくれた絵図を頼りに行けば、奥の細道の山際に十符の菅で有名なところがあります。

今でも毎年編み目が十ある菅菰(すがごも)をととのえて千代藩主の伊達氏に献上しているといいます。

壺の碑(いしぶみ)は市川村の多賀城にあります。この壺の石ぶみは、高さ六尺余り、横三尺ばかりでありましょうか。苔を払いのけて見ると、文字が幽かに見えます。そして、四方の国境までの里数が記されています。

そして「この城は、神亀元年、按察使によると、鎮守符将軍大野朝臣東人が設置したものえある。天平宝字六年には、参議東海東山節度使により、同じく将軍恵美朝臣朝猟が修造したもの。12月1日」とあります。

これは聖武皇帝の時代に当たります。その昔より語り伝えられている歌枕は沢山あるとは言え、山は崩れて、川は流され、道が新たに出来て、石は埋もれて土に隠れて、木はすっかり老いてしまい若木にかわってしまえば、時は移り時代は変わり、すでにその跡は確かではないことばかりを、ここに至っては、疑いなく千年のかたみであり、今だにこの目の前に古人の心をあらためて見るものです。

これは行脚の旅の一徳であります。命があってこその悦びに、旅のつとめを忘れて泪が落ちるばかりだったとあります。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No12・宮城野

宮城野

名取川を渡って仙台に入ります。

五月四日の菖蒲葺く日、端午の節句の前日でありました。

旅の宿を探して、四五日とどまり滞在することにしました。

ここに絵描きの加右衛門という人がいて、なかなかの思いやりの有る人と聞いて、その者を訪ねてみることにします。

この者は、数年来にわたり、不確かな名所を調べていて、一日かけて親切に案内してくれました。

宮城野の萩が生い茂っていて、秋には美しいであろうということ。玉田、よこ野、つつじが岡はあせびが美しく咲いている頃です。

そして、日のひかりが届かないほど茂った松の林に入って、ここを木の下と言うと案内してくれました。昔もこのように露が深かったからこそ「御侍御笠を」と詠まれています。薬師堂、天神の御社などを参拝して、その日はすっかり夕暮れてしまいました。

その上に猶、松島、塩釜のところどころを絵に画いてくれたのです。

しかも、紺に染めた緒を付けた草鞋(わらじ)を二足旅の餞にと下さいました。

そこで、風雅なことに徹底するものとして、加右衛門の親切に喜んで感謝の気持ちを顕して一句詠んでいます。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No11・笠島から武隈へ

笠島から武隈へ

鐙摺(あぶみずり)から白石の城を過ぎて、笠島の郡りに入れば、平安中期の歌人である籐中将実方の塚を探して人に尋ねたところ「ここからはるかに右に見える山際の里を、箕輪、笠島といい、道祖神の社がありかた身の薄と言われて今もあるのです。」と教えられました。このごろの五月雨に道がとてもあぶないので、たいそう疲れてしまい、外から眺めて過ぎて行こうとして、箕輪、笠島の簑や笠は折からの五月雨の時節に関係があるのかと思い、面白がって一句ここで芭蕉が句を詠んでいます。

そして、岩沼に宿をとると書かれています。

ここで言う岩沼とは、古くは武隈(たけくま)と称していました。この武隈では有名な武隈の松にこそ、その見事さに目覚めるような心地がしたとあります。

根は土際から二つに分かれていて、昔から伝えられている姿を失ってはいないことが解ります。

真っ先に能因法師のことを思い出します。その昔、陸奥守として当地に下った人が、この松の木を伐って名取川の橋杭にされたことがあったからであろうか、能因法師は「松は、このたび来てみると、跡かたもなくなっている」と詠んでいます。

代々に渡って、あるいは伐り、あるいは植え継ぎなどをしたと聞いていたのに、今まだ、松の木の千年と言われる通りの木立となっていて、立派な松の様子となっています。

「遅桜は、翁がそちらに行かれる頃は、桜も終っていよう。せめて武隈の松をお見せ申してくれよ」と挙白というものが江戸の旅立ちの餞別に句を贈ってくれたことに応えて、芭蕉がここで一句詠んでいます。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No10・佐藤庄司が旧跡から飯塚温泉へ

佐藤庄司が旧跡から飯塚温泉へ

阿武隈川の月輪の渡しを越えて瀬の上という宿場へ出ます。

ここには佐藤庄司のお城があった跡があると言われています。

左へ山際を一里半ばかり行くと、飯塚の里で鯖野といわれているあたりだと聞いて、尋ねながら行きます。

すると、丸山という飯塚町西方の館山にある城が、庄司の城跡だと聞きました。

麓に大手門の跡があり、人から教えてもらうがままに、その謂れに涙を落とし、又、傍らの菩提寺に一家の古い石碑が残されていました。

そして、まずはこの二人の嫁の墓をお参りして哀れに思うのでした。

ここでの佐藤庄司とは、源義経の家計であった庄司の子、佐藤忠信、継信の兄弟が義経に従い、忠義な働きをして、悲壮な戦死をとげたのです。

この戦死の知らせを受けた兄弟の嫁は、兄弟が戦いに勝って故郷に帰ってきたと鎧、兜を身につけて、その姿を母に見せ、悲しむ母を慰めたというのです。

この謂れのある古寺に入りお茶を頂くと、ここにあの言い伝えの義経の太刀と弁慶の笈がしまってあるというのです。

何ともちょうど5月の節句も近い5月1日なので、この二つの由緒ある秘蔵の宝物に、ここで芭蕉は一句詠んでいます。

そして、その夜は飯塚温泉で宿をとります。

この宿がひどく、土間に筵を敷いて囲炉裏端でゴロ寝をしたのでした。しかも雨が降り出して雨漏りはするは蚤や蚊はいるやで、眠れない夜を過ごしたのでした。おまけに芭蕉は持病の疝気まで起こして大変だったのです。

やっと短夜が明けて、また旅を続けてゆきます。

なかなか気力が出せずに馬を借りて桑折の宿駅にでます。まだこの先のはるかに長い旅を思い、病気が良くはないのだけれども、捨身無常の観念であると、「道路に死なんこれ天の命なり」と、決死の気力で旅をつづけるのです。

そうして、伊達の大木戸を越すのでした。

 

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No9・あさか山からしのぶの里

あさか山からしのぶの里

等躬の宅から旅を続け五里ばかり行くと、奥羽街道の宿である檜皮(ひはだ)の宿がありそこを更に進むとあさか山があります。

ここからは道が近くになり、沼の多いところです。

かつみを刈る頃がもうすぐであろうと、この辺ではどの草をかつみ草の花というのかと尋ねたけれども知る人がいないようで、沼で人に尋ねて「かつみかつみ」と聞いて歩き、日は山の端に掛かる頃となってしまったとあります。

二本松より右に曲がり、黒塚の岩屋と言われる謡曲「安達原」で有名な鬼女の岩屋を一見して、福島の宿にたどり着ています。

そうして一泊して、翌朝にしのぶもぢ摺の石を尋ねて忍ぶの里を訪ねています。遥か山陰の小さな人里にあるその石は、半ば土に埋もれてありました。すると、その里の童が寄って来て、教えてくれるところによると「昔はこの上にあったのですが、往き来する人が、麦の葉をちぎって、この石で試しなさるをいやがって、この谷へ突き落したので、石の表が下向きに伏している」というのです。

この地が、昔風雅な模様のしのぶもぢずり絹の産地であったことから、この石のいわれに感動して、芭蕉はここで一句詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No8・須賀川

須賀川

兎に角、こうして芭蕉一行は白川の関を越えて阿武隈川を渡りました。

左に会津磐梯山を高く見て、右に岩城。相馬、三春の荘園を眺めて、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)の地を境として山がつらなっています。

須賀川の宿駅の町に等躬(とうきゅう)という俳人を訪ねて四、五日滞在しています。

そこで、「白川の関を越えるに、どのような句を詠みましたか」と、等躬に尋ねられ、「長いみちすがらの苦しみに身も心も疲れ果て、しかも、風景には驚かされて白川での詩人達の感慨が身に沁み腸までもがちぎれる思いがしました」と答えています。

そして、ここに一句を書き残しています。

疑いもせずに一句で答えたさすがの芭蕉の句に、その後に連句の第二句脇句を付け、その後は第三句と続け歌仙三巻となったものだと「奥の細道」にも記されています。

この宿のかたわらに大きな栗の木があり、木蔭に世を捨てた僧侶が住んでいました。

その木の実を拾い奥まった大木のような山にも、このように静かに暮らすものだと、懐紙に書き記していたようです。

その詞を見ると「栗という文字、は西の木と書く。西方の極楽浄土からの便りであると、行基菩薩の一生の杖にも、家の柱にも、この木を使われているという」と書いてあり、そこで芭蕉は感動して、一句詠んでいます。

 

※この詞とは『法然上人行状絵図』に書かれていたものであるとの注釈資料あり。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No7・白川の関

白川の関

不安なままに日数ばかりが過ぎて、やっと白川の関にさしかかるころとなり、旅の心もとうとう定まって来ました。

「便りあらばいかに都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」平兼盛の歌にもあるように「いかで都へ」と便りを頼もうとしたが断られて届かないのです。

この白川の関は日本三関と言われる難所で、奥州の入り口を守る有名な関所です。

他に茨木と福島の境界である勿来(なこそ)の関、山形と新潟との国境である念珠(ねず)が関の二つの関所があり、この三つが日本三関と言われています。

そして、中でもこの白川の関は、詩人や風雅の人が多く関心を持ち歌に詠んでいます。

秋風を耳に残して紅葉を人の面影とするほどに青葉の茂る梢は、猶さらに哀れを感じます。

卯の花の白く美しい姿には、茨の花寄り添って咲き、まるで初雪のなかを越えるような心地がすると芭蕉は書いています。

古人は、冠を正し新たに正装して越えたものだと歌人で歌学者藤原清輔が『袋草子』に書きとめていると、そこで一句曾良が詠んでいます。

※白川の関の古人の歌をここに記しておきましょう。

「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関・・・能因法師」

「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関・・・源頼政(みなもとのよりまさ)」

「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり・・・西行」

室の八島で読んだと言われている奥羽の歌人、藤原実方(ふじわらのさねかた)の歌もあげておきます。

「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは」

実方は王朝歌人で清少納言とも浮名を流したと言われています。陸奥守に左遷されその地で死んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No6・雲巌寺より殺生石・遊行柳

雲巌寺より殺生石・遊行柳

下野の国の雲巌寺の奥に仏頂和尚が山中に住んでいたという跡があると訪ねています。

仏頂和尚と芭蕉は江戸の深川で出会っていて、その後、和尚は晩年を雲巖寺で山庵を営み七十四才で逝去しています。

そんな、山中の山庵の跡を訪ねて行こうとすると、みちすがらに人々が一緒になって若者まで賑やかに騒いで付いてきて気が付けば、雲岩寺の麓まで辿り着いていました。

鬱蒼とした山に谷道は遥かにつづき、松や杉はあたりを暗くして、苔からは水が滴り、卯月だというのに寒いくらいです。

そして、十景が尽きるところの最後の橋を渡り、山門に入ります。

そうしてあの山庵の跡を探し、後ろの山をよじ登ると、石の上に小さな庵があり、そのすがたは岩窟に結び付けて築かれていました。

厳しい巌に妙禅師の「死関」法雲法師の石室を見るようだと、ここで即興で一句詠んでいます。

ここから更に、芭蕉は殺生石へと向かいます。

ここで馬引きにせがまれて一句詠んだとあります。

殺生石は那須温泉の山陰にあり、石の毒気はいまだになくなっておらず、その毒気の有毒ガスに、蜂や蝶までもが地面の砂が見えないくらいに重なって死んでいたとあります。

そこから進み、西行の歌にも「道のべに清水流るゝ柳・・・・」と詠まれている柳が、芦屋の里にあり田の畔に残っています。この地の領主の戸部なにがしが「この柳をお見せしたい」などと、折々に良くおっしゃっていたので、どこにあるものかと思っていたが、とうとう今日この柳の陰に立ち寄ったのだと、ここで一句詠んでいます。