俳句575第六回「切れ字って何」勉強会

俳句575第六回「切れ字って何」勉強会
~~~著:中井(なかい)三(み)好(よし)「口語体俳句論」より考える~~~~

今回は切れ字「や」「かな」「けり」という切れ字に否定的な本を見つけたので、ご紹介致します。

その本はまさにタイトルから『「や」「かな」「けり」捨ててこそ・・・・』となっていて、思わずAmazonで見つけて買ってしましました。

読んで見ると、確かに「や」「かな」「けり」を捨てて文語体の呪縛から脱しふだん着のことばで・・・という帯文が付いています。

やはり、この作者も切れ字を避けようとすると、そこには文語体という大きな壁が立ちはだかっていて、これを乗り越えるためには、他の文章同様に口語体を使うべきだという考えをお持ちのようです。

俳句が正岡子規の時代に、革新的な変革を遂げたのは、文明開化という大きな時代からの要請であり、必然的に大きく変わって行きました。けれども、言語活動の変化とは違い、俳句では今でも文語体と口語体がごちゃ混ぜで、明確に分かれてはいません。

そこで、日常の生活からすでに文語体は消えていると明言されています。確かに、今の生活の中には、文語体はすでに古典のみです。

そこで、俳句の世界が停滞し衰退してゆかないためには、生きた言葉で、気軽に表現してゆくことが大切なのです。

「や」「かな」「けり」がたった十七文字に含まれてしまえば、自ずと文語体となります。それを文語体とならない生きた俳句として詠むためには、たった十七文字を上手くまとめ上げなければなりません。

この作者は、口語体で俳句を詠むことは、必ずしも自由律俳句では無いと述べています。575の定型のリズムを崩さずに口語体にまとめるためには、切れ字は必要がないと考えているようです。このような考え方は、おしゃべり感覚で今の言葉で俳句を詠もうと考えている私の考えにも通じるものがあります。

575の定型が必ずしも文語体である必然性を生み出すとは思えないという考えが、私の想う所なのです。言葉のリズムは、文字に書くよりもおしゃべり感覚の会話調の中から自然に生み出されてゆきます。現在の文章の書き方は、すでにそうなっています。

ですから、俳句でも現代の人間が、現代に生きている自分の言葉で俳句を詠むのですから、自ずと口語体が思い浮かぶはずです。ことさら切れ字を取って付けたように乱用することは良く無い傾向だと考えます。

これまで、芭蕉の「奥の細道」をたたき台にして、切れ字の考察を続けて来ましたが、ここにおさらいしてみると

切れ字「や」の数が二十九句もある。・・・・・・上五に多く使われている。

切れ字「けり」はほとんど無いと思われる。

切れ字「かな」は八句。・・・・・・・・・・・・下五に使われている。

切れ字の無い句が十五句。

となっており「や」「かな」「けり」の切れ字では、「や」の次が、切れ字が使われて無い句となり十五句もありです。つまり、「や」は多いけれども、他には、無い方が多いという結果です。

芭蕉の時代からすでに、575のリズムに区切りながら十七文字に上手くまとめることが俳句のまとめ方であり、必ずしも切れ字を使わなければならないと言う決まりではなかったようですね。

今回は、「口語体俳句論」著:中井(なかい)三(み)好(よし)という一冊の本を参考にさせて頂きました。面白い俳句論だと思います。この作者が文中に掲げていらっしゃるように、「や」「かな」「けり」を捨ててこそ、今の時代に生きる、同時代の俳句が詠めるのではないかと共感致します。

おしゃべり感覚の俳句を、これからも多くの方に解って頂けたら幸いだと考えています。二〇二〇年は予想もしなかった新型コロナウイルスのパンデミックとなり、未曾有の状態ですが、これからは、ますます同時代の生きた俳句が求められて行くであろうと考え、またそうあるべきだという考えを、この本を読んで更に強く感じました。この先不透明な不安を俳句修行で拭い去り、必ず来るアフターコロナの時代に備えて行こうではありませんか。必ず新時代に向けての新たな風が巻き起こるに違いありません。

(2020/11/29)

 

2020年12月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : admin

芭蕉の詠んだ五月の一句

芭蕉が「奥の細道」五月を詠んだ句が3句あります。

その中でも一番有名な句が

「五月雨をあつめて早し最上川・・・芭蕉」

この句ではないでしょうか。
最上川の川下りを詠んだ句ですが、この句の原句は
「五月雨をあつめて涼し最上川」だったと言われます。
芭蕉は川下りの船着き場で、まずは原句と言われる句を詠んでいます。
そして、実際に舟に乗り、川を下りその臨場感を
「五月雨をあつめて早し最上川」と推敲したと言われます。
涼しい川の流れを詠んだ原句が
実際に川を下り厳しい渓流のようなその流れの早さを経験して
早しとしています。

五月の雨に水嵩が増していて、川の水を沢山の支流や山肌から集めて流れているその光景は涼し気なだけでは言い表せない動きのあるスリル満点の川下りだったようですね。

他に、「笈も太刀もかざして見せよ帋幟」「笠島はいづこさ月のぬかり道」
の句が奥の細道で詠まれています。

 

芭蕉の詠んだ桜の句より

芭蕉の詠んだ桜の句のなかに

「菜畠に花見顔なる雀哉・・・芭蕉」

1685年貞享二年芭蕉42才の句があります。この句は解釈が難しい句ですが、「菜畠」「花見顔」「雀」と575にそれぞれがポイントとなる言葉を含んでいます。

「菜畠」とは菜の花の畑であろうと考えられますね。

「花見顔」とはお花見で楽しそうな満足顔でしょう。

「雀」ここでは愛らしい村雀か人なつこい小鳥ですね。

それぞれが季節は春と感じさせますが、雀には季節感はないですね。けれども句の意味としては雀がお花見をしているような春を喜んでいる顔に見えるという意味でしょう。

菜畠はさまざまな菜っぱの植えてある畑であるはずです。そこに花が咲いているのかどうかは解りません。もしかしたら、菜の花を桜に見立てて雀を詠んでいるかもしれません。桜の咲く頃には当然菜の花も咲いていますから、ここでは、雀が菜っ葉の畑にいて可愛らしくそこにある桜の木でお花見をしているようだ。そんな桜の花が咲いているような光景が浮かびますね。果たして実際には底に桜は咲いていたのでしょうか。

今年は桜が早いので、田園風景の一齣にこんな自然のなかで咲く美しい桜を目にしました。山に咲く自然の山桜や、畑の中の一本桜など、意外な場所に意外な早さで咲いている桜が目に入りました。

思いもよらない桜の花の早い開花が、新型コロナウイルスでなんでも自粛の時世にまるで浮世絵のように美しく見えますね。

(2020・3・25)

2020年3月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : admin

芭蕉が詠んだ梅の句

芭蕉の詠んだ梅の句の中で有名な句をご紹介!

「盛なる梅にす手引風も哉・・・芭蕉」

あまりに美しい梅の花に見とれて手折ることが出来ない気持ちでいる風よお前も同じようにこのままで散らさずに優しく吹きすぎてくれるといいなァ。

そんな気持ちで芭蕉はこの句を詠まれたのでしょう。

江戸の頃には桜が人気になり花見が盛んですが、それでもいち早く咲く梅は平安の万葉集にも桜よりも多く詠まれていると言われるくらいに人々に愛されていたようですね。

芭蕉の詠んだ「梅」

2020年3月24日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : admin

芭蕉の旅「奥の細道」No13・壺の碑(いしぶみ)

壺の碑(いしぶみ)

加右衛門の画いてくれた絵図を頼りに行けば、奥の細道の山際に十符の菅で有名なところがあります。

今でも毎年編み目が十ある菅菰(すがごも)をととのえて千代藩主の伊達氏に献上しているといいます。

壺の碑(いしぶみ)は市川村の多賀城にあります。この壺の石ぶみは、高さ六尺余り、横三尺ばかりでありましょうか。苔を払いのけて見ると、文字が幽かに見えます。そして、四方の国境までの里数が記されています。

そして「この城は、神亀元年、按察使によると、鎮守符将軍大野朝臣東人が設置したものえある。天平宝字六年には、参議東海東山節度使により、同じく将軍恵美朝臣朝猟が修造したもの。12月1日」とあります。

これは聖武皇帝の時代に当たります。その昔より語り伝えられている歌枕は沢山あるとは言え、山は崩れて、川は流され、道が新たに出来て、石は埋もれて土に隠れて、木はすっかり老いてしまい若木にかわってしまえば、時は移り時代は変わり、すでにその跡は確かではないことばかりを、ここに至っては、疑いなく千年のかたみであり、今だにこの目の前に古人の心をあらためて見るものです。

これは行脚の旅の一徳であります。命があってこその悦びに、旅のつとめを忘れて泪が落ちるばかりだったとあります。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No4・日光にて

日光にて

奥の細道は、千住を出発して奥羽、北陸を通り美濃国大垣まで、およそ600里(2400Km)を150日かけて歩きぬいた旅といわれます。

深川の芭蕉庵から千住へ、そして、草加を経て室の八島を詣で、日光へと辿り着きます。

卯月朔日と書かれています。これは旧暦の4月1日に当たる頃です。

ここで芭蕉は、日光の東照宮に参詣しています。そして、何句か詠んでいます。

昔は「二荒山」といわれていたが、空海大師が東照宮を開基に山に登った時に、「日光」と名を改めたと言われています。

そして、ここで旅の同行人である曾良が、河合惣五郎という名であったが、髪を剃りすて「宗悟」と改名したと書かれています。

この後、二人は日光の裏見ノ滝を訪れています。

 

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No2

芭蕉と旅

芭蕉は自らを見つめ、自然の心をとらえ、うそいつわりのない真情を575の文字で表現するために、風雅の道を求めていました。
そのために、作品に行き詰まると旅を試みています。代表的な紀行文に残されている旅として次の3つがあります。

四十一才のとき
「野ざらし紀行」野ざらしの旅。1684年秋~翌年1685年四月。

四十四才のとき
「笈(おい)の小文(こぶみ)」旅を楽しむ心境の旅。1687年~1688年の旅。

四十六才のとき
「奥の細道」みちのくの旅。1689年3月27日深川を出発~9月6日大垣に筆を止める。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No1

 

「奥の細道」の旅に出る決意

芭蕉は旅の俳聖といわれています。
その生涯をかけた「奥の細道」の旅を俳諧の道と芭蕉は考えていました。

芭蕉が尊敬する西行や宗祇(そうぎ)、中国の詩人杜甫や李白もみな旅の道で死んでいます。
人生五十年と言われた時代に、四十六才といえば、すでに体も弱く、この旅は帰るところを持たぬ行き倒れの旅を覚悟したものでした。

そうして、長年住み慣れた深川の芭蕉庵を人手に渡し、門人杉風(さんぷう)の別荘に移り、いよいよ北陸、奥羽の旅に出るのです。

門人杉山(すぎやま)杉風(さんぷう)とは、芭蕉が二十九才の時に初めて江戸へ下った折に落ち着いたのが二十五才であった杉風の家といわれています。

その後、江戸に生まれ幕府に魚を納める問屋「鯉屋」の主人であった杉風は、深川の庵に芭蕉を住まわせて、自らその世話をしていたともいいます。

「奥の細道・序文」過去番組をYouTubeからご覧ください。
https://youtu.be/6D7N_4jbrXc

 

これから俳句の旅が始まります。

このページでは、俳句にまつわる情報の中でも松尾芭蕉の俳句の旅にまつわる俳句をご紹介してゆきます。

松尾芭蕉は生涯に1000句余りの句を残したと言われています。

上野貴子は一年半をかけてこの芭蕉1000句余りの全句解釈に挑戦!

この春に見事に完了することが出来ました。その記念にこのHPを公開いたします。

芭蕉は俳句は旅だと言っております。

そんな、芭蕉から俳句の神髄を探ろうと、俳句の旅に出たいと思います。

 

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2017年4月21日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : admin