芭蕉の旅「奥の細道」No13・壺の碑(いしぶみ)

壺の碑(いしぶみ)

加右衛門の画いてくれた絵図を頼りに行けば、奥の細道の山際に十符の菅で有名なところがあります。

今でも毎年編み目が十ある菅菰(すがごも)をととのえて千代藩主の伊達氏に献上しているといいます。

壺の碑(いしぶみ)は市川村の多賀城にあります。この壺の石ぶみは、高さ六尺余り、横三尺ばかりでありましょうか。苔を払いのけて見ると、文字が幽かに見えます。そして、四方の国境までの里数が記されています。

そして「この城は、神亀元年、按察使によると、鎮守符将軍大野朝臣東人が設置したものえある。天平宝字六年には、参議東海東山節度使により、同じく将軍恵美朝臣朝猟が修造したもの。12月1日」とあります。

これは聖武皇帝の時代に当たります。その昔より語り伝えられている歌枕は沢山あるとは言え、山は崩れて、川は流され、道が新たに出来て、石は埋もれて土に隠れて、木はすっかり老いてしまい若木にかわってしまえば、時は移り時代は変わり、すでにその跡は確かではないことばかりを、ここに至っては、疑いなく千年のかたみであり、今だにこの目の前に古人の心をあらためて見るものです。

これは行脚の旅の一徳であります。命があってこその悦びに、旅のつとめを忘れて泪が落ちるばかりだったとあります。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No4・日光にて

日光にて

奥の細道は、千住を出発して奥羽、北陸を通り美濃国大垣まで、およそ600里(2400Km)を150日かけて歩きぬいた旅といわれます。

深川の芭蕉庵から千住へ、そして、草加を経て室の八島を詣で、日光へと辿り着きます。

卯月朔日と書かれています。これは旧暦の4月1日に当たる頃です。

ここで芭蕉は、日光の東照宮に参詣しています。そして、何句か詠んでいます。

昔は「二荒山」といわれていたが、空海大師が東照宮を開基に山に登った時に、「日光」と名を改めたと言われています。

そして、ここで旅の同行人である曾良が、河合惣五郎という名であったが、髪を剃りすて「宗悟」と改名したと書かれています。

この後、二人は日光の裏見ノ滝を訪れています。

 

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No2

芭蕉と旅

芭蕉は自らを見つめ、自然の心をとらえ、うそいつわりのない真情を575の文字で表現するために、風雅の道を求めていました。
そのために、作品に行き詰まると旅を試みています。代表的な紀行文に残されている旅として次の3つがあります。

四十一才のとき
「野ざらし紀行」野ざらしの旅。1684年秋~翌年1685年四月。

四十四才のとき
「笈(おい)の小文(こぶみ)」旅を楽しむ心境の旅。1687年~1688年の旅。

四十六才のとき
「奥の細道」みちのくの旅。1689年3月27日深川を出発~9月6日大垣に筆を止める。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No1

 

「奥の細道」の旅に出る決意

芭蕉は旅の俳聖といわれています。
その生涯をかけた「奥の細道」の旅を俳諧の道と芭蕉は考えていました。

芭蕉が尊敬する西行や宗祇(そうぎ)、中国の詩人杜甫や李白もみな旅の道で死んでいます。
人生五十年と言われた時代に、四十六才といえば、すでに体も弱く、この旅は帰るところを持たぬ行き倒れの旅を覚悟したものでした。

そうして、長年住み慣れた深川の芭蕉庵を人手に渡し、門人杉風(さんぷう)の別荘に移り、いよいよ北陸、奥羽の旅に出るのです。

門人杉山(すぎやま)杉風(さんぷう)とは、芭蕉が二十九才の時に初めて江戸へ下った折に落ち着いたのが二十五才であった杉風の家といわれています。

その後、江戸に生まれ幕府に魚を納める問屋「鯉屋」の主人であった杉風は、深川の庵に芭蕉を住まわせて、自らその世話をしていたともいいます。

「奥の細道・序文」過去番組をYouTubeからご覧ください。
https://youtu.be/6D7N_4jbrXc

 

これから俳句の旅が始まります。

このページでは、俳句にまつわる情報の中でも松尾芭蕉の俳句の旅にまつわる俳句をご紹介してゆきます。

松尾芭蕉は生涯に1000句余りの句を残したと言われています。

上野貴子は一年半をかけてこの芭蕉1000句余りの全句解釈に挑戦!

この春に見事に完了することが出来ました。その記念にこのHPを公開いたします。

芭蕉は俳句は旅だと言っております。

そんな、芭蕉から俳句の神髄を探ろうと、俳句の旅に出たいと思います。

 

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