芭蕉の旅「奥の細道」No29・敦賀から種の浜へ

 

敦賀から種の浜へ

しだいに白根が嶽が隠れて、比那が嵩が表れて来ます。

浅水川(あそうずがわ)に架かっている橋を渡り、玉江の芦にはもう穂が出ている頃となりました。

鶯の関を過ぎて、湯尾の峠を越えれば、燧ケ城、かえる山には初雁の鳴く声を聞いて、十四日の夕暮れに、敦賀の港に宿をとります。

その夜は月が、殊のほか明るく照らし「あすの夜も、こうであってほしいものだ」と言うと、「越路の習いで、明日の天気は読めないものです。」と言い、宿の主に酒を進められて、けいの明神の夜祭にお参りに出かけます。

この神社は仲哀天皇の御廟(ごびょう)だと言います。社頭神はさびて、松の木の間から月の光がさしていて、真っ白な霜がかかっているようです。

その昔、遊行二世の上人が、大願発起した事があり、みずから草を刈り、土石を荷って、ぬかるみやどろをかわして、参詣の人や往来の者達を通りやすくしたという事です。

この古い例は、今でも絶えず語られています。

神前に細かい真砂を運ばせ「これを遊行の砂持と申します。」と亭主が話してくれました。

そこで、芭蕉は一句詠み、翌十五日は、亭主の話も残念ながら雨が降り

そこでまた、芭蕉は一句詠でんでいます。

そして次の十六日は、空は晴れて小貝を拾おうとして、種の浜に舟を走らせます。浜へは海の上を七里ほどかかります。

天屋五郎右衛門とやら言うもの、破籠、小竹筒など、細かな物まで準備して、使いの物など皆で舟に乗り、追い風にあおられながらちょうど良く浜に着きました。

浜にはわずかな海女の小家があり、侘しいたたずまいの法花寺があります。

ここでお茶を飲んで、酒を温めて、夕暮れの寂しさを感じるまでを過ごし、ここで芭蕉は、二句詠んでいます。

そして、その日のあらましを等裁の筆にしたためさせ寺に残しています。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No28・等栽

等裁を尋ねて

福井から三里ほどのところで夕食をとろうとするが、夕暮れの黄昏せまる路は心細く不安です。

ここには等裁とう俳諧の古老がいるはずで、何時の年だったか江戸に尋ねて来たことがあります。あれからもうはるか十年余りはなりましょうか。どれほど年老いているでありましょう。まさか死んではいないでしょうと、人に尋ねると、まだ存命であるといい、その住むところを教えてくれました。

それではと市中を離れたみすぼらしいそなつな小家に、夕顔が咲き糸瓜が生えて、鶏頭や帚木で入り口の細い扉が隠れているほどです。

どうやらこの家であるだろうと、門を叩けば、侘し気な女が出て来て「どこから来たお坊さんですか、主は今近所へ出かけていて留守ですが何かご用ですか」と言います。どうやら彼の妻のようです。昔が偲ばれる美しい人です。やがて等裁が帰り再会すると、その家に、二晩泊まることになります。

やがて名月が美しいと言われる敦賀へ旅立つのですが、等裁も見送ろうとしましたが、裾がからまり、路の出鼻をくじかれてしまったとおかしくからかいながら旅立つのでした。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No27・天竜寺、永平寺

天竜寺、永平寺

丸岡の天竜寺に長老がいて、その年おいた和尚に何か古き謂れがあるかと訪ねました。

また、金沢の北枝という蕉門のもので後に十哲の一人と言われる者が、ここまで見送りに来ていました。

途中のところどころの風景を通り過ぎてくるだけでなく心に刻みつけて、

折に触れて風雅の句を作ろうとする意志がるものと聞きました。

今、ここで別れるに望んで、芭蕉は一句詠んでいます。

そして、芭蕉は五十丁山に入り、永平寺を礼拝します。

道元禅師の開基のお寺であります。帝都から千里の天子直轄の地で、このような山陰にその姿を残しているのも、何と貴きことでありましょう。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No26・全昌寺、汐越の松

全昌寺、汐越の松

大聖寺の場外にある全昌寺という寺に泊まります。

ここは加賀の地であり、曾良が前夜に泊まっていました。そこで、芭蕉は一句詠んでいます。

一夜を隔てて、まるで千里の隔たりがあるかのようだとあります。

芭蕉も秋風を聞きながら、この禅寺の宿舎に寝れば、朝の空が明けはじめる頃には読経の声が聞こえ、その後に鐘板が鳴ると食堂に入ります。今日は越前の国へと、心がはやされる思いで宿舎を下ろうとすると、若い僧たちが、紙と硯を抱えて階段の下まで追いかけて来ました。

ちょうどこの季節の折、庭に柳が散る姿を見て、芭蕉は一句詠み、兎に角、墨をさまして草鞋を履きながら書き残したとあります。

そして、越前の境である吉崎の入り江の舟に棹をさしながら進み、浜坂の岬にあるという汐越の松を尋ねます。

ここには西行の歌があり、この一首は、数多くのどんな景色にもまさると言います。

もしも、この首に何か一言でも物言うものがいたとしても、無用のことでありましょうと書かれています。

 

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No25・那谷、山中へ

那谷、山中へ

山中温泉へと向かいます。途中には、白根山を後にして更にその先へと歩き続けます。

すると、左の山際に観音堂がありました。これは、第六十五代天皇の花山の法皇だといいます。三十三か所の順礼を成し遂げた後に、千手観音菩薩の像を安置された折に那谷(なた)と名付けられたと言うことです。那智・谷汲の二文字を取って那谷と名付けられたのだそうです。この那智寺には、さまざまに珍しい石があり、古い松がきちんと並べられて植えられていて、観音堂は茅葺の小さな堂です。そして、岩の上の地に造られてあり、尊くありがたい地であると感慨にひたり、ここで芭蕉は一句詠んでいます。

そして、山中温泉にたどり着きます。

この温泉はとても効能があると言われています。その価値は有明けの次にも値するであろうと芭蕉は言います。

そこで、まず一句芭蕉は詠んでいます。

この宿の主は、久米之助と言う者で、まだ十四歳の童でした。この者の父は俳諧を好んでいたという山中温泉の十二宿の一つを営んでいました。

そこに、その昔、貞門俳諧の門人として有名な貞室が、まだ名を成さない若輩であったころに、この地に来ていたが、ここでは風雅に辱しめられてしまったため、京に帰りやがて成功したといいます。

そうして、その後に、この一村を判詞として請けられたといいます。今では、もう昔ばなしとなってしまった話のようです。

曾良は、長旅の疲れで腹の病にかかってしまい伊勢の国の長島という所にゆかりの者がいるので、そこへ先に行くことになり一人で旅立つのでした。

そこで、曾良が別れを惜しみ一句詠んでいます。

そして、行くものの悲しみ、残るものの恨みは、二羽の鳥が離れ離れとなり空に浮かぶ雲に迷ってしまうようであると、芭蕉もここで一句詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No24・小松

小松

小松という所に着いて、ここでは先ず一句芭蕉が詠んでいます。

そして太田神社に参詣しました。実盛(さねもり)の遺品である、甲、錦の切れはしがここにはあります。

その昔、源氏に属していた時代に義朝公(よしともこう)より賜ったものだと言います。

まことに平武士のものとは思えないほど立派です。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊唐草のほりものがしてあり、黄金をちりばめてあります。

竜頭には鍬形が打ち付けられているのです。真(実)盛の討ち死にした後に木曽義仲の願い状に添えて、この社に献上されたものだと言われます。

樋口の次郎が使いをした事などと共に、当時の事が目の前に見えるかのように由来や起こりとして書いてあります。

そこで、一句芭蕉が詠んでいます。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No23・金沢

金沢

卯の花山、くりからが谷を越えて、金沢へは7月15日となりました。

ここに大阪から通う商人で何処という名の者がおりました。その者と旅の宿をともにします。ここでの商人何処という人物は句が残されていて蕉風の俳人であったかも知れません。

兎に角、金沢では蕉門の俳人達との再会が楽しみでした。

ことに、名を一笑という者は、小杉一笑という俳人で、この道に詳しい人には多少名の通った人物で、世間では知る人もいたであろうに、芭蕉が訪れるのを待たずに去年の冬に早くもなくなってしまったとのことです。その兄が追善に冥福を祈り句会を催しました。

芭蕉は、三十六歳の若さで死んだという話に深い悲しみを感じて句を詠んでいます。

その際に「奥の細道」に芭蕉3句を書き記しています。

 

芭蕉の旅「奥の細道」No22・越後路から一振、那古の浦へ

越後路から一振、那古の浦へ

酒田から何日か波の寄せ来る道を進み、北陸道を雲上へと望み行きます。やっとの思いで胸を傷つけられながら、加賀の府金沢まで百三十里。ねずの関を越えれば、越後の地に改めて足を踏み入れ、越中の国一振りの関に至ります。この間、9日かかり暑さと雨に降られた苦労に神の運命までも悩まして、持病がおきてしまったので、ことを記すことが出来ません。しかし、そこで芭蕉は二句を残しています。

それでも今日は、親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなどと言う北国一の難所を越えて疲れてしまい枕を引き寄せるように眠りましたが、ひと間隔てておもての方に、二人ばかりの若き女の声が聞こえます。年老いた男の声も混じり何やら話ているような様子なので聞いてみれば、越後の国の象潟という所の遊女であるよう。伊勢参宮の折にこの関まで男が送って来て、明日は故郷へ返すための文をしたため儚い伝言などをしているようです。

白波が寄せる汀に身を慰みに合わせ、天下の世をあさましくも下って来て、定めのない契りに、このように遊女となってしまった。まったく先の世の因果な業によるものと、この世の運の悪さを物語っていたましたが、それを聞きながら、芭蕉はうとうとと寝入ってしまい、朝には旅立つ芭蕉一行に「行方も知らない旅路の苦しいことを思うと、あまりに不安であやふやで悲しいのですが、見え隠れしながらあなた様の後を恋しく付いてゆきたく思います。僧侶としての御情に大きな仏の御心の恵みで、仏の道に入る機会の縁を下さいませ」と涙を落としながら言うのでした。

とても困ったことであったが、「我々の旅は行く先所々なかなか進まないことも多いものです。只人に行方を尋ねながらまかせて行くようなものです。そのお心に神様仏様の御加護がありますよう。きっと恙なく過ごせることでありましょう。」と、とっさに言ってあげましたが、出て行こうとしながら、しばらくの間は哀れでしかたがなかったようです。

そこで、芭蕉は一句詠んでいます。曽良にこの句を語り、曾良がそこに書きとどめるのでした。

その後、とくろべ四十八が瀬とか言う数知れぬ程の沢山の川を渡って、那古と言う浦に出ました。

担籠の藤浪という所は、春でもまるで初夏のような哀を感じるのだと聞き、そこを人に尋ねれば「そこへは是より五里、磯を伝ってゆくと対岸に入り、海女の苫屋もさほどないので一夜の宿をかすものも無いでしょう」と脅すように言われて、加賀の国へと入ります。

そして、ここで一句芭蕉が詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No21・象潟

象潟

大河と山、水上と陸地の風光明媚な場所が数限りなくあると言う象潟へと、今、心が急き立てられます。

酒田の港より東北の方へ山を越えて磯を伝って砂ばかりの地を踏みしめながら進み、その際の距離十里、日の影が少し傾く頃、汐風がこまかい砂を吹き上げ、雨が降りぼんやりと暗く出羽富士と言われる鳥海山が隠れています。暗中に模索して「雨もまた珍しいものだ」とすれば、雨の後の晴れた景色も又頼もしいものだと、海女の苫屋に膝を割り仲間に加わり雨の晴れるまで待っていました。

その翌朝は天まで良く晴れて、朝陽が指し込んできて辺りを明るく美しくして、象潟に舟が浮かぶ姿が見えます。

まずは能因島に舟を寄せて、三年間世事から離れて暮らしていたという跡を心配して聞くと、向こう岸に舟から上がれば「花の上こぐ」と詠まれた桜の老木があり、西行法師の記念であると残されていました。入り江の上には墓所があります。神功后宮の御墓だといいます。その寺を干満珠寺といいます。

この場所に天皇がこられたことは未だに無いと言われています。いったいどうゆう事でしょうか。この寺の一丈四方の居所にすわり、簾を捲き上げれば、その風景は一目で見渡せてしまい、南に鳥海山が天をささえて、其の陰を入り江にうつしています。西には、むやむやの関が路の果てに見えて、東には堤を築いて、秋田へ続く道がはるかに見え、海を北にかまえて波が打ち寄せる所を汐こしといいます。

この入り江は、縦横およそ一里ほどで、松島にどこか俤が似ているかと思えば、又違うようでもあります。

松島は笑うようで、象潟は恨むように見えます。寂しさに悲しさを加えて、その地のありさまは憂いに沈む美人の風情のようだとあります。

ここでは、芭蕉が二句詠んでいます。

更に「祭礼として」と曾良やみのの国の商人低耳が句を詠んでいます。

そして「岩の上の雎鳩(みさご)の巣をみる」として曾良が詠んでいます。

 

 

芭蕉の旅「奥の細道」No20・最上川から羽黒山、酒田へ

最上川から羽黒山、酒田へ

最上川の川下りに乗ろうと思い、大田石という所でちょうど良い天候になるまで待つことになりました。

ここには、その昔から古の俳諧の種がこぼれ落ちていて、忘れられない華やかなりし頃の昔を恋しく思い、奥まった田舎の風流にひたる声を静めて、この道を探し躓き、古今俳諧の道に踏み入り迷ったと言うけれども、道標とする人もすでになく、やむを得ず一巻を残しています。

今回の風流な道では、こうした句を生み出す結果に至りました。

とこの「奥の細道」の中で有名な句の原句を詠んでいます。

最上川はみちのくから流れ出して山形を水上とします。途中にはごてん、はやぶさなどという恐ろしい難所があります。

板敷山の北を流れて、果ては酒田の海へ注ぐ川です。

左右には山が覆い、茂みの中を舟で下ります。この船には稲は積んではいけません。変わった舟だと言われてしまうのが習わしなくらいに、急流で有名なのです。

白糸の滝は、青葉の木々のあいだを落ちていて、仙人堂が岸に臨んで建っています。

この時期の川下りは、水嵩が満ちていて舟下りが危ないほどでした。

そこで、芭蕉は一句詠んでいます。ここでの一句は、中七の推敲が有名で、前日に巻いた時の句を、実際に川下りを体験したあとの臨場感で見事に推敲しています。

そして、6月3日、羽黒山に登ります。

図司佐吉という者を訪ねて、別当の代理京都の人会覚阿闍梨にお目にかかりました。

そして、南谷の別院に宿をとります。情けに厚く慈悲深い主のおかげで、4日、坊舎にて俳諧興行が行われ、

そこでの一句を芭蕉は「奥の細道」に書いています。

翌5日、羽黒権現に参詣します。

当山の開祖である能除大師は、いったいいつの代の人であるのかはっきり解らないようです。延喜式(えんぎしき)には「羽州里山の神社」とあり、書き写すときに「黒」の字を「里」としてしまったのでしょうか。羽州黒山を中略にて羽黒山というから「羽黒権現」なのです。出羽というのは「鳥の羽毛を、この国の貢ぎ物に献上する」と風土記に書かれてあるので羽を出すという意味かららしいのです。そして、月山、湯殿を合わせて出羽三山としています。

この寺は、江戸の東叡山に属していて、天台宗の教えである止観の月のように明るくてらし、円頓融通の法の灯をかかげてあり、僧坊が棟を並べて隆盛しています。

修験者は修業に励んでいて、人はこうした霊山霊地に有り難い後利益があると、貴びながらも恐れをいだいています。この繁栄はいつまでも続くと思われ、実に立派なお山であるというべきでしょう。

8日、月山に登ります。

木綿注縄を首にかけ、宝冠に頭をつつみ、強力という者に先導されて、雲が霧のように立ち込める山の中を、氷雪を踏み締めて八里ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうのかと思いながら、息絶え絶えに身も凍えるほどに冷え切って頂上に到着しました。すると日は沈み月が顕れています。そこに笹を敷、篠竹を枕として臥して夜が明けるまで待つことにしました。

そして、日が昇り雲が晴れたので湯殿まで下りました。谷のかたわらに鍛冶屋の小屋がありました。

この国のかじは、霊水を選んでここに身心を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を切って世間から賞賛されています。あの竜泉に剣をにらいでもらいたいものです。

干将莫耶(かんしょうばくや)の二振りの名剣の昔を慕い、その道に熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切として良く知られた話です。

岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺ばかりの桜が、莟を半分ほど開きかけていました。降り積る雪の中に埋もれながら、春を忘れずに花を開こうとする遅桜の花の心は、やるせないものです。

「炎天の梅花」がここで花の香りを匂わせているようです。行徳僧正の哀れな歌も、ここに思い出し尚更この桜が一層哀れ深く感じられています。

すべて、この山中でのささやかなことまでも修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられています。そのため、これ以上は筆を止めて書き記すことはできません。麓の宿坊に帰れば、阿闍梨の求めにより、三山順礼の句をいくつも短冊に書くのでした。そして、芭蕉三句、曾良一句を「奥の細道」には書き記されています。

羽黒を出てから鶴ケ岡の城下を通り長山氏重行という武士の家に迎えられ、俳諧一巻を巻きます。この者は左吉の縁者で左吉も一緒になって芭蕉一行を見送ります。

川舟に乗って、酒田の港まで下ります。淵庵不玉という医師のもとを訪ねて宿をかります。そこで、芭蕉は二句詠んでいます。